中川郁太郎

中川郁太郎

中川 郁太郎: 深き淵より

― 若きバッハの苦悩と輝きと―  1707年の6月、アルンシュタットからミュールハウゼンへとやってきた若きバッハは、同地のオルガンの拡充に着手すると共に、「より整えられた環境」の中で教会音楽全般の整備に乗り出した。 翌年の6月まで、わずか一年に過ぎなかった彼のミュールハウゼン時代は、この教会音楽への積極的な取り組みによって、音楽的な豊穣の時代となった。本日演奏される4つのカンタータも、この時期に誕生したものである。  ミュールハウゼン時代のバッハのカンタータは、まだ多くの点で17世紀以来の伝統にしたがっていた。同時代のハンブルクの牧師、エールトマンによって導入されたオペラ起源のレチタティーヴォ―アリアの形式はまだみられず、テクストそのものも、詩編を中心とし、伝統的に音楽化されてきた聖書箇所にほぼ限られていた。 カンタータ第131番《深き淵より、われ汝に呼ばわる、主よAus der Tiefen rufe ich, Herr, zudir》(BWV131)では、詩編第130編とリングヴァルトの讃美歌《主イエスキリスト、汝こよなき宝Herr Jesu Christ, du höchstes Gut》のテクストとが組み合わされている。 詩編130編は「7つの悔悛詩編」のうちの一つとされ、ウルガータ(ラテン語)訳聖書の「de profundis」という訳語とともに親しまれた。 「深き淵 profundis」とは、「生ける者らの地」(詩編第27編13節)からもっとも遠く低く、死と隣り合わせの場所とされている。 この立ち位置から始まる詩編第130編は「瀕死の苦難にあって神を呼び、ひたすら神の赦しにすがり、救いを待ち望む個人ないし民族の、嘆きと信頼の歌」(松田伊作)とされている。 古来多くの作曲家が、この「深き淵」に思いをめぐらせ、テクストからインスピレーションを得た音楽を書いた。  当時のミュールハウゼンでは三位一体節後に「悔い改めの礼拝」がおこなわれる習慣があったが、直接的にはバッハ着任の直前におこった大火災への「悔い改めの音楽」が必要とされたことが、カンタータ第131番作曲の契機ともされている。  バッハは「深き淵profundis」をどのように音楽化したのであろうか。 第130番、第1曲の短い前奏に続いて合唱各声部に歌われる「深き淵よりAus der Tiefen」のテーマは、下降音型によって「深き淵」の明確なイメージを音として表現している(譜例1)。 (譜例1) だが同時に「そこに追いやられたのは自分の罪の結果なのだ」という、同じ詩編第3節にあらわれる認識をバッハもまた共有しており、このテーマは「深き淵」の単なる描写にとどまらず、そこに居る人間の「へりくだり」をはっきりと示すものとなっている。 合唱が「主よ、私の声を聞いてください」とうたう部分になると音楽はヴィヴァーチェになり(譜例2)、切迫したテンポの中でフーガがあらわれる。 (譜例2) これは、「深き淵」をうたった部分全体を前奏曲としてその後にフーガを導入する、鍵盤作品における「プレリュードとフーガ」の様式にならったものである。 このような「深き淵」における苦難と絶望、そこにおかれた人間の切迫した呼びかけからなる音楽は、バッハ最初期のカンタータ第150番《主よ、われ汝をあおぎ望むNach dir, Herr, verlanget mich》(BWV150)にもみられる。 素朴な悲しみをたたえたシンフォニアに続いてうたわれる第2曲の合唱では「あなたのことを、主よ、私は求めています」という最初の歌詞が、オクターブ上行から明確なラメントバス(嘆きのバス)へと続く悲劇的な旋律線(譜例3)でうたわれる。 (譜例3)…