カンタータ《Christen, ätzet diesen Tag(キリスト者よ、この日を刻みつけよ)》BWV 63 は、降誕祭当日のための作品で、成立事情と初演の詳細は確実ではありませんが、近年の小林義武氏の研究により、1714年12月25日にヴァイマルで上演された可能性が高いと見なされています。編成は壮大で、古い慣行に従いトランペット4・ティンパニ、オーボエ3・ファゴット、弦楽パート、歌唱パート、通奏低音という、複数の「セクション」に分かれて書かれていて、このカンタータは、明らかに祝祭的な作品となっています。

作品の華やかさは、1723年のライプツィヒ就任直後に書かれた祝祭カンタータ BWV 119 に肩を並べます。BWV 119 のほうがスケールの大きさを感じさせますが、BWV 63 にはシンメトリカルな形式美と余分を削いだ洗練美があり、筆者は本作をより好みます。注目すべきは、クリスマスに関連する歌詞はレチタティーヴォでのみ語られて、合唱やアリアは一般的な神への賛美を促す内容である点です。
大分前から知られていることですが、1717年 ハレ(Halle) の宗教改革祭のために書かれたカンタータに、同テキストの一部が使われています。作詞家はヨハン・ミヒャエル・ハイネキウス(聖マリエン教会の牧師長)、作曲者は同教会の音楽監督であるゴットフリート・キルヒホフによるものであると見られています。その点から次の疑問が生じます。バッハのBWV 63の作曲は元々、ヴァイマルのためのものではなく、もしかするとハレのためを予定していた可能性があることです。これに関しては、1713年12月のバッハの2週間の滞在(ハレ)が関連すると考えられています。教会当局の招きで、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァッコウの死による空席を埋めるために、彼の職務を一時的に代行しました。12月15日に、音楽上演に関することで12ターラー(Taler)の報酬を受け取ったことがわかっています。バッハは、その期間中にツァッコウ氏の後任に指名されました。しかし、彼はその招聘をむしろ利用して、ヴァイマルでの地位をより強固なものにした、とみられています。1714年3月2日には少なくともコンツェルト・マイスター(Concert-Meister)に昇進しています。この地位は、チャペルのヒエラルキー(序列)でいうところの、副楽長(Vize-Capellmeister)に次ぐ第三位です。
現存する資料からは、ヨハン・セバスチャン・バッハがハレで1曲以上を上演したのか、疑念の域を出ません。明らかなことは、アドヴェント(待降節)の第2・第3主日(バッハがハレに滞在していた期間)に BWV 63 を上演することは、典礼上の理由から不可能であっただろう、ということです。それに反して、この気前のよい(太っ腹な)謝礼は、試作の報酬としては異常(考えにくい)です。12ターラーという金額は、当時の中部ドイツにおいて大規模な葬送曲や受難曲の委嘱作品の基準価格に相当するものでした。こうした状況から、以下のように考えられます。この支払いは、要するに、試作のためのものではなく、委嘱作曲料として払われたものであり、もしかすると、(滞在中に)このクリスマスのための祝祭的な曲のリハーサルを行った可能性も考えられます。当時ハレの市の音楽監督の職は一年以上空席であり、プロイセン王フリードリヒ1世(※1713年没)の国をあげての服喪の期間も、とうに終わっていました。
このカンタータのテキストはシンメトリカル(左右対称)に配置されています。第一曲(初めの曲)と最終曲は華麗な合唱曲で、ダ・カーポ形式です。最も謙虚であると同時に奇妙でもあるのは、レチタティーヴォが中心(セントラル)に据えられていることです。そこでは、救いのメッセージが宣言されます。このセッコ・レチタティーヴォの前後には二つの二重唱が置かれ、第一の二重唱はソプラノとバスによって歌われます。テーマは神の聡明な摂理への信頼です。このDuettoには器楽のオブリガートが加えられています。オーボエ、またはオルガンのどちらかを選択することができます。第二の二重唱は残る二人(アルトとテノール)が担当し、クリスチャンたちに喜びを鼓舞します。バッハは文字通り “Reihen = Reigen”(輪舞)を受けて、舞曲的に仕立てています。残りの二曲はア・コンパニャート・レチタティーヴォで構成されています。ここでも、彼の入念なプランニングを見ることができます。前のレチタティーヴォは弦楽器が伴奏し、後のレチタティーヴォは弦楽器に加えてオーボエ(木管楽器)が伴奏します。それぞれの響きの違いが、曲にキャラクターを与えています。
現存資料において、用紙の透かしと写譜人の筆跡の分析から、少なくとも三つの異なる期間に書かれた筆跡があることがわかります。これはすなわち、バッハのディレクションのもとで少なくとも三回の上演が行われたことを示唆しています。

演奏用パート譜はほぼ一式そろっていますが、リピエーノのソプラノ/バスと本来のヴァイオリン・パートは失われたようです。写譜はバッハ自身と、その助手(おそらく弟子のヨハン・マルティン・シューバルト〔1690–1721〕)が分担しました。1724年12月25日のライプツィヒ初演ではトーマス学校の生徒が追加のヴァイオリン・パートを書き起こし、その後の上演(おそらく1729年)では通奏低音パートが書き直され、この際に第3曲のオルガン・オブリガートをバッハ自身がパート譜に追記しています。

ほとんどのパートにバッハ自身の改訂痕が残るため、自筆総譜の欠失にもかかわらず、authentic な総譜の完成には大きな困難を伴いませんでした。
オルガン(Violonも)のパート譜はC-Dur(ハ長調)**ライプツィヒでの再演時に使用したと考えられます** の他に、「transponiert(移調譜)」が残っており、その調性はB-Dur(変ロ長調)です。他のパート譜は全てC-Dur(ハ長調)で書かれているため、ヴァイマル期での上演の際には、オルガン(+ ヴィオローネ)がコーアトーン(A=465Hz)、その他の楽器はカンマートーン(A=415Hz)で演奏されたと推測されます。


バッハ没後、演奏用パート譜はC. P. E. バッハに遺されました。彼は晩年に資料整理を進め、表紙が損傷していたため新しい表紙を与え、次のように記しました。Feria 1 Nativ. Xsti / Christen ätzet etc. / a 4 / 4 Voci / 4 Trombe / Tamburi / 3 Oboi / 2 Violini / Viola / [のちに追記:Bassono] / e Basso / da J. S. Bach.

1854年、これらのパート譜はベルリン・ジングアカデミーを経て王立図書館(現・ベルリン州立図書館〈プロイセン文化財〉メンデルスゾーン文庫付 音楽部門)に移管され、現在はMus. ms. Bach St 9の請求番号で所蔵されています。







































