ヨハン・ゼバスティアン・バッハによるカンタータ《飢えた者のためにあなたのパンを裂いて与え》BWV 39 は、三位一体節後第1日曜日のために書かれ、現在の研究によれば、1726年6月23日にライプツィヒで初演されました。歌詞の典拠は、マイニンゲン宮廷のために遅くとも1704年に作成され、そこでも他の地でも長く用いられ続けたカンタータ歌詞集の一年度分に由来しています¹。バッハがこれらのテキストに注目するきっかけとなったのは、年長の従兄ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ(1677–1731)の作曲したカンタータによるものと思われます。ザロモン・キュメルレは『福音主義教会音楽百科辞典』第1巻(ギュータースロー、1888年、67頁)において、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハが1713年にこの年度分全体を作曲したと述べていますが²、それはもはや証明できません。少なくとも約20曲現存するこの作曲家のカンタータの大部分は、いずれにせよその歌詞集に基づいています。ヨハン・ゼバスティアンは1726年に、聖燭節から三位一体節後第13日曜日にかけてのライプツィヒでの演奏のために、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハのカンタータを少なくとも18曲自ら筆写しています。さらに、1726年夏の半期に演奏された7曲の自作カンタータのためにも、この年度のテキストを用いています。
これらの新作を手がけた理由としては、二つのことが考えられます。ひとつは、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ自身が演奏のために提供していたカンタータ連作の空白を埋める必要があったこと、もうひとつは、それ以前の作品のいくつかがライプツィヒのトーマス教会楽長の意図に沿わなかった可能性です。後者を示す傍証として、少なくともカンタータ《見よ、われは多くの漁師を遣わす》のテキストが両作曲家によって作曲されているという事実があります。昇天日向けの《神は喜びの叫びとともに昇り給う》や、三位一体節後第1日曜日向けの《飢えた者のためにあなたのパンを裂いて与え》についても、同様のことが言えるかもしれません。1723年の5月にライプツィヒのトーマスカントールに着任という事情から、三位一体節後第1日曜日はバッハにとって特別な意味を持つ日となっていました(着任後に初めて演奏したカンタータは BWV 75)。それは職務開始の記念日であり、少なくとも1723年と1724年においては教会カンタータの新たな年度サイクルの始まりを画するものでもありました —— 当時の慣行に反して教会暦より半年ずれています。そのうえ、ライプツィヒの礼拝規則は、三位一体節後第1日曜日に二部構成の大規模なカンタータの演奏を求めていました。
バッハの並々ならぬ意欲は、まずこのカンタータの冒頭合唱に鮮やかに表れています。その規模(総スコアの半分以上を占めます。)と多様性においてこれを超える作品はほとんどないと言っていいでしょう。バッハは広範な聖書テキスト(イザヤ 58:7–8)をモテット様式で作曲し、テキストに含まれる各思想的単元に新たな主題(テーマ)素材を与えています。これにより、調性と拍子の異なる三つの大きな主要部分が生まれ、それぞれがさらに小さな単元へと分かれています。最初の合唱の前には大規模な器楽序奏が置かれており、リコーダー(フラウト・ドルチェ)、オーボエ、弦楽器のグループ間で単純な動機がやりとりされます。この導入部は、休止によって中断される合唱音楽とともに、パンを裂く身振りとして解釈できるかもしれません。
冒頭合唱に続くレチタティーヴォは、三位一体節後第1日曜日の福音書 —— 富める者と貧しいラザロのたとえ話(ルカ 16:19–31)—— の観点から聖書の節を読み解いていきます。続くアリアでは、アルト声部、オーボエ、独奏ヴァイオリンが通奏低音伴奏のもとでトリオを形成し、神の模範に倣うよう聴く者に呼びかけます。
カンタータ第2部の始まりもやはり聖書の言葉によって開かれますが、今度は新約聖書のヘブライ人への手紙(13:16)からのテキストです。バッハはこれをバス声部のアリオーソとして付曲しており、当時の礼拝参加者の心にキリストの声(Vox Christi)との連想を呼び起こしたに違いありません。これに続くアリアは対照的に、一斉奏(ユニゾン)で奏でられるリコーダー(フラウト・ドルチェ)とソプラノ声部を用いることで際立って明るい音色を生み出し、信仰ある魂の感謝の気持ちを表現しています。
このアリアと終曲コラール《幸いなるかな、憐れみより出でし者よ》³との間には、さらにもう一つのレチタティーヴォが挟まれています。ここでは「信仰ある魂はいかにして創造主の恵みへの感謝を示しうるか」という問いが提起され、バッハは弦楽伴奏(accompagnato)によってその言葉に静かな重みを与えています。
このカンタータの深刻な内容と壮大な構想は、長年にわたって作曲の動機をめぐる様々な考察を生んできました。特に根強い説として、ルードルフ・ヴストマンのものがあります。彼は著書『ヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータ作品』(ライプツィヒ、1913年、285頁)において、当時まだ不明だった作曲時期をめぐり、1732年6月にザルツブルクから追放されたプロテスタント教徒のライプツィヒ通過とこのカンタータを結びつけました⁴。しかし近年の研究により、この作品が数年前にすでに完成していたことが明らかになっています。したがって移住者のために特別に作曲されたものではあり得ません。さらに、ライプツィヒ市がプロテスタント難民への対応においてドレスデンのカトリック宮廷への配慮から慎重な立場をとらざるを得なかった事情も明らかになっています。ドレスデンが認めた人道支援を超えた公式の同情表明は一切避けられており⁵、そのような状況のもとでヴストマンが想定したような難民向けの礼拝が行われる余地はなかったと言えるでしょう。
バッハのこのカンタータの自筆総譜と原典声部の大部分は現存しており、現在ベルリン国立図書館音楽部門に所蔵されています⁶。バッハが1750年に亡くなった際の遺産分配において、総譜と声部譜はカール・フィリップ・エマーヌエルと年下の異母弟ヨハン・クリスティアン・バッハに渡りました。ヨハン・クリスティアンはベルリンでC. P. E. バッハのもとに住んでいましたが、1755年にイタリアへ旅立った際、楽譜の大部分はベルリンに残されました。声部セットは、C. P. E. バッハのベルリン時代における親しい知人の一人ヨハン・フリードリヒ・ヘーリングを経てフォス=ブーフ伯爵家のコレクションに収まり、1851年に当時のベルリン王立図書館が取得しました。自筆総譜は1805年までC. P. E. バッハおよびその家族の手元に留まり、その後おそらくゲオルク・ペルヒャウとアブラハム・メンデルスゾーンを経てベルリン・ジングアカデミーへと渡り、さらに1854年に王立図書館へと移りました。幾度にもわたる所有変遷の中で、C. P. E. バッハに渡った付加声部は、一部の数字付き通奏低音声部を除いて失われてしまいました。
終曲コラールは——わずかな相違を除いて——ライプツィヒ市立図書館所蔵の写本 Ms. R 18 にも収められています⁷。
カンタータ《飢えた者のためにあなたのパンを裂いて与え》は1857年、ヴィルヘルム・ルストによってバッハ協会版第7巻(301–348頁)において初めて印刷出版されました。新バッハ全集においては、アルフレート・デュルの編集により1967年に第 I/15 巻(179–228頁)として刊行されています⁸。











