この曲が特別である理由 ―― per omnes versus
コラール・カンタータ年巻の通常のやり方は、第1詩節と最終詩節だけを原詩・原旋律のまま残し、中間詩節は無名の詩人がマドリガーレ詩にパラフレーズするというものだった。BWV 107 はそれをしない。ヘールマンの7詩節がそのまま、順番どおりに7つの楽章になる。1724年の年巻で自由詩をもたない作品はこの1曲だけであり、年巻の中でも二度と繰り返されなかった。
なぜこうなったのか。二つの説明が並立している。
- 外的事情説(『バッハ事典』)── その週たまたま詩人(おそらくトマス学校元コンレクトルのアンドレアス・シュテューベル)の協力が得られず、やむを得ず原詩をそのまま使った。
- 意図説(Gardiner)── バッハが自分に課した制約である。年巻冒頭の4曲で定旋律をソプラノ→アルト→テノール→バスと順に置いたのと同じ、自己規制の一種。Gardiner はこれを「17世紀的な設計」と呼び、同時代のシュテルツェル、テレマン、グラウプナーと比べて「バッハだけが一貫して自分の仕事を難しくする」と評している。
どちらを採るにせよ、作曲上の課題は同じである。7つの詩節はすべて同一の韻律・同一のバール形式(Stollen–Stollen–Abgesang)をもつ。この鉄のように規則正しい枠のなかで、いかに単調にならずに19分を書くか。この作品の面白さは、ほぼすべてその解決策にある。
バッハの解決策
- 形式:4つのアリアはどれもダ・カーポ形式をとらない。歌詞のバール形式に従った二部構成である。これは制約の産物であると同時に、詩の構造を音楽が素直に受け取った結果でもある。
- 調と拍子の絶え間ない切り替え:ロ短調 → 嬰ヘ短調 → イ長調 → ホ短調 → ロ短調 → ニ長調 → ロ短調。長調と短調が交互に現れ、拍子も 4/4 → 3/4 → 12/8 → 4/4 → 6/8 と変わる。
- 編成の極端な差:全合奏(第1曲)→ オーボエ・ダモーレ2+通奏低音(第2曲)→ 弦(第3曲)→ 通奏低音のみ(第4曲)→ オーボエ・ダモーレ2(第5曲)→ フルート2+弱音器付きヴァイオリン(第6曲)→ 全合奏(第7曲)。
- 定旋律との距離の操作(後述)。
BWV 4 との違い
per omnes versus という点では《キリストは死の縄目につながれたり》BWV 4(1707)が先例だが、あちらは全楽章がコラール旋律に基づく厳格な変奏曲だった。BWV 107 は違う。旋律を使うのは第1曲・第5曲(部分的)・第7曲だけで、第3・4・6曲は自由に作曲されている。歌詞は丸ごと保存し、旋律は手放す ―― この「半分だけの per omnes versus」こそ BWV 107 固有の設計である。
全体の構図
[1] コラール合唱 ロ短調 4/4 全合奏+定旋律(S+hn)
↓
[2] レチタティーヴォ(B) 嬰ヘ短調 4/4 ob d'am 2, bc
↓
[3] アリア(B) イ長調 4/4 str, bc ← 長調・確信・「狩り」
[4] アリア(T) ホ短調 3/4 bc のみ ← 短調・サタン
[5] アリア(S) ロ短調 12/8 ob d'am 2, bc ← 主調復帰・コラール旋律回帰
[6] アリア(T) ニ長調 4/4 fl 2, vn(con sord.), bc ← 長調・帰依
↓
[7] コラール(合唱) ロ短調 6/8 シチリアーノの器楽協奏に埋め込まれた四声体
中央の4アリアは 長 – 短 – 短 – 長 の対称をなし、しかも第5曲で主調ロ短調に戻ることで、全体が第1曲と第7曲のあいだにきれいに架橋される。第4曲(サタン、通奏低音のみ)が最も暗く最も痩せた点であり、そこを底にして第6曲の長調・フルートへと開いていく。
楽章別
第1曲 コラール合唱 ロ短調 4/4
自立した器楽協奏のなかに声楽が埋め込まれる、協奏的コラール編曲。定旋律は拡大された音価でソプラノに現れ、コルノ・ダ・カッチャが補強する。定旋律は素のままではなく装飾を受けており、表情が豊かになっている。下3声は模倣でコラール行を準備するが、多くはホモフォニー。
注目すべきは行のグルーピングで、8行を1行ずつ均等に扱うのではなく「1+2 / 3+4 / 5単独 / 6–8」とまとめ、歌詞のバール形式(Stollen–Stollen–Abgesang)を音楽的に可視化している。第5行を単独で際立たせるこの扱いは、第7曲でも繰り返される。
木管の比重が年巻の他曲より大きい。この楽章は旧作からの転用ではないかという説もある(『バッハ事典』)。
なおコルノ・ダ・カッチャのパートはバッハが後から書き加えたものらしい(Uwe Wolf)。
第2曲 レチタティーヴォ(バス) 嬰ヘ短調 4/4 オーボエ・ダモーレ2+通奏低音
「規則正しい詩節をレチタティーヴォにする」という難題への解答。韻律が整いすぎてレチタティーヴォの自由な語りにそぐわないのを、バッハは (a) オーボエ・ダモーレの音型による短い合いの手でつなぎ、(b) 歌唱声部にメリスマを導入することで乗り切った。「Freuden(喜び)」の長いメリスマ、そして最終行の「retten(救う)」のメリスマで楽章はアリオーソに移行する。後半に置かれたカノンは救いの約束の成就を象徴する(『バッハ事典』)。
第3曲 アリア(バス) イ長調 4/4 ヴィヴァーチェ 弦+通奏低音
コラールの短調的性格からはっきり離れる、歌謡的な長調のアリア。信仰の勇気に満ちた明るい出で立ち。通奏低音とヴァイオリンが確信のこもった音型で対立する。
歌詞の erjagen(「努力して勝ち取る」の意)が、文字どおりの「狩る」の意味で音楽化されており、バスの派手な狩猟ホルン風トリルが鳴る(Gardiner は "outrageous hunting call trill" と呼ぶ)。カンタータ全体で唯一、外向きに華やいだ楽章。
第4曲 アリア(テノール) ホ短調 3/4 通奏低音のみ
サタンの奸計を歌う詩節にふさわしく、伴奏を通奏低音一本に削ぎ落とした最も暗い楽章。力強いリトルネッロがサタンの立ち上がるさまを描き、テノールはこの低音に「抗して立ち」、衝突を繰り返す。
低音線は極端に動きが激しく角ばっており、シュヴァイツァーはこれを巨大な竜の身もだえになぞらえた。拍節も 6/8 と 3/4 が1小節ごとに、しかも不規則・予測不能に入れ替わる(ヘミオラ)。足元が崩れ続ける感覚そのものが作曲されている。
第5曲 アリア(ソプラノ) ロ短調 12/8 オーボエ・ダモーレ2+通奏低音
主調ロ短調への復帰。12/8 のシチリアーノ/パストラーレ。「至福」の情念に光があてられる。
コラール旋律への回帰が段階的に仕組まれているのがこの楽章の眼目である。
- 器楽リトルネッロで暗示的に(装飾された旋律の変形として)
- 歌唱声部の登場でより明白に
- 最終行「was Gott will, das geschicht(神の意志することが起こる)」で原型どおりの完全な引用として
歌詞が「御心の成就」を言い切る瞬間に、旋律がようやく素顔を見せる。動かしがたさの表現としてこれ以上のものはない。『バッハ事典』がこの曲を「アリアとコラール」と呼ぶのはこのためである。
第6曲 アリア(テノール) ニ長調 4/4 フルート2(ユニゾン)+弱音器付きヴァイオリン+通奏低音
再び長調。神への自らの帰依を歌う。通奏低音のピツィカートを伴うフルートのブーレ風の曲想が、身を委ねる者の晴れやかな心を描く。旋律様式はコラール旋律から意識的に遠ざかった歌謡的なもの(Dürr)である。第5曲でいったん定旋律に完全復帰したあと、あえてもう一度自由な歌へ離れる ―― この「離れてから終曲で戻る」段取りが、最後のコラールの効果を作っている。
第7曲 コラール(合唱) ロ短調 6/8
バッハのカンタータのなかでも例外的な終曲。簡素なカンツィオナール様式の四声体(ソプラノをコルノ・ダ・カッチャが補強)が、そのまま置かれるのではなく、自立した器楽声部のなかに埋め込まれている。器楽はシチリアーノのリズムで合唱を伴奏し、冒頭リトルネッロは各行のあいだにも回帰する。『バッハ事典』はこれを「クーナウ風のコラール・ファンタジー」と形容する。
行のグルーピングは第1曲と同じで、第5行「O Vater, Sohn und Geist(おお父よ、子よ、霊よ)」が単独で際立ち、ミニチュアの頌栄(doxology)として響く。冒頭楽章の構造が終曲で回収される。
まとめ ―― BWV 107 の核心
三つの資料が、別々の言い方で同じところを指している。
- Hiemke は、年巻そのものの動機をカルプツォフ/シェレの「コラール説教(Liedpredigt)」の伝統に求めた。
- 『バッハ事典』は、終曲を「クーナウ風」と呼んだ。クーナウはバッハの直前のトマスカントルである。
- Gardiner は、per omnes versus という設計を「17世紀的」と評した。
つまり BWV 107 は、年巻のなかで最も古風に、最も意識的にライプツィヒの先行世代(シェレ、クーナウ)へ手を伸ばした作品だと読める。そしてその archaism は懐古ではない。原詩を丸ごと抱えこむという17世紀的な制約を引き受けたうえで、ダ・カーポを捨て、編成を通奏低音一本まで削り、竜のようにのたうつ低音を書き、最終アリアで旋律を完全引用してみせる ―― 制約の側から新しい形を引き出している。
聴きどころを一つだけ挙げるなら、第4曲の底(通奏低音だけの闇)から第5曲でコラール旋律が素顔を現すまでの流れである。