中川郁太郎: 「思い煩うな」

「思い煩うな」

All Bach Cantatas Vol. 8 によせて
中川 郁太郎


All Bach Cantatas Vol. 8 では、三位一体後第7日曜日のためのカンタータがとりあげられる。

三位一体後の日曜日は、福音主義ルター派教会の発展の中で、各日曜日に朗読される旧約書、使徒書、そして福音書の内容が次第に関連づけられ、特定のテーマを与えられるようになった。三位一体後第7日曜日のテーマは「イエスの給食、マナ、パン裂き」であり、元来この日に朗読される福音書は「ヨハネによる福音書」第6章1節~15節だったが、バッハ時代のライプツィヒでは、「マルコによる福音書」第8章1節~9節が朗読されるようになっていた。

興味深いのは、ライプツィヒの教会で選ばれたマルコ8章が、元の聖書箇所ヨハネ6章の並行記事、すなわち「マルコによる福音書」第6章32節~44節(二匹の魚と五つのパンを五千人に与える話)ではなく、それからほどなくして現れる二度目の「給食」のエピソードであることだ。


その頃、再び多くの群衆が集まり、何も食べるものを持っていなかった時、彼(引用者注:イエス)は弟子たちを呼んで彼らに言う、「この群衆に対して、私は腸のちぎれる想いがする。というのも、彼らはこれでもう三日も私のもとにいるのだが、何も食べる物を持っていないのだ。だからといって、もし彼らを空腹のまま家に帰らせたら、道すがら倒れてしまうだろう。それに彼らの中には、はるばる遠くからきている者もいる」。すると彼の弟子たちは彼に答えた、「ここで人は、いったいどこからパンを手に入れ、こんな荒涼とした所でこれらの者たちを満腹させることができるのですか」。すると彼は彼らにたずねた、「あなたたちは、パンをどれほど持っているか」。彼らは言った、「七個です」。そこで彼は、地面の上に腰を下ろすように群衆に指図した。そして彼は、七個のパンを取り、感謝して裂いた。そして彼の弟子たちに渡し、人々に分け与えるようにするのであった。そこで彼らは、群衆に分け与えた。また彼らは小魚を少し持っていた。そこで彼はそれらを祝福し、それらも分け与えるように告げた。そこで人々は食べ、満腹した。そしてパン屑の残り物を、七個の大籠一杯になるほど集めた。人々の数は四千人ほどであった。
(岩波書店『改訂新盤 新約聖書』、2023より、佐藤研訳)


マルコ6章と8章に続けてあらわれる二度の「給食」エピソードでは、パンの数(五つ→七つ)と群衆の数(五千人→四千人)がそれぞれ異なっている。なにより違うのは、第6章では群衆の最初の夜の食事を弟子たちが先に心配し、「一度解散させて、近隣に食べ物を買いに行かせましょう」と提案するのに対し、第8章ではイエス自らが「もう三日も自分の話を聞いている」群衆に対し、佐藤研が「腸のちぎれる想い」と訳した想いにかられ、食べ物を与えようとする点であろう。

元来、三位一体後第7日曜日に朗読されていたヨハネ6章では、イエスの「奇跡的な行為」が強調されているのに対し、マルコ福音書では、時の権力機構からはじき出され、それゆえイエスのもとへと集った「群衆」の存在が前面に出ている。群衆に対するイエスの想いは「同情」という人間感情を超え、教会カンタータや《クリスマス・オラトリオ》等のバッハ作品でもしばしば言及される「共苦 Mitleid」に近いものである。

いずれにせよ、バッハが三位一体後第7日曜日のために作曲した二つのカンタータ、カンタータ第107番《なにゆえ汝は悲しむのか Was willst du dich betrüben》(BWV107)、とカンタータ第187番《彼らみな汝を待ち望む Es wartet alles auf dich》(BWV187)ではマルコ福音書第8章の「数」が活かされている。両曲はともに、弟子たちが持っていたパン、その残り屑を集めた大籠の数、すなわち「7つ」の楽曲で構成されたカンタータなのである。


1724年7月23日に演奏されたカンタータ第107番は、同年6月に始まった「コラール・カンタータ年巻」の一曲である。

ヨハン・ヘールマン作のコラール《なにゆえ汝は悲しむのか Was willst du dich betrüben》をもとにしたカンタータ第107番は「コラール・カンタータ年巻」中でも、歌詞の扱いという点で異彩を放つ。冒頭合唱曲と終曲コラールに挟まれたソロのレチタティーヴォとアリアにおいて自由詩が一切挿入されることがなく、コラール詞だけが全節作曲されているのである。これは、なんらかの事情で歌詞作者の協力を得られなかったためとも言われるが、はっきりした理由はわかっていない。

ヘールマンのコラールは、バッハ自身がライプツィヒ・コラール集に収録した《われは神より離れまじ Von Gott will ich nicht lassen》(BWV417)の旋律で歌われていた。フランスの俗謡を起源とするこの旋律は、現在は日本基督教団の『讃美歌21』にも「どんなものでも」(478番)としておさめられている。

譜例1 讃美歌21-478番「どんなものでも」


第1曲の合唱では、この定旋律を器楽のシンフォニアの合間を縫うようにしてソプラノが歌い、2本のオーボエ・ダモーレとオーボエ・ダ・カッチャが補強する。コラールの旋律は装飾を伴っている。

ヘールマンのコラール詞は、マルティン・ルターの名高いコラール《神はわがとりで Ein feste Burg ist unser Gott》と同じ「バール形式 Barform」で書かれている。第1節(カンタータ第1曲)の歌詞でみると、

Was willst du dich betrüben,
O meine liebe Seel?

Ergib dich, den zu lieben,
Der heißt Immanuel!

Vertraue ihm allein,
Er wird gut alles machen
Und lenken deine Sachen,
Wie es dir nützlich sein.

1行目~2行目、3行目~4行目がそれぞれ Stollen(節)、5行目~8行目が Abgesang(後節)と呼ばれる。

バッハはカンタータ第107番で、歌詞に内在する「バール形式」を音楽の構造に巧みに反映させている。第1曲では、シンフォニアの合間に切れ切れに導入されていたコラールが Abgesang(後節)の二行目に達すると、バスがソプラノのコラールの三度下を重ねて歌い、アルト、テノールも加わって対位法的な動きを見せる。そして Abgesang(後節)の残り三行が一気呵成に歌われ「人間の必要をすべて良きようにとりはからい、幸福を与える神」への信頼を表明するのである。

コラール《なにゆえ汝は悲しむのか Was willst du dich betrüben》のテクストは「イエスの給食」のエピソードに直接言及することはないが、人間に「共苦」をおぼえ、必要な恵みを与える神という存在から、当日の聖書箇所を暗示していく。続く第2曲においてバッハはコラール詞をレチタティーヴォ化するという困難な課題に取り組んでいるが、バス独唱は神の確固たる歩みをあらわすオーボエ・ダモーレの八分音符に支えられ、「事がうまく運ばなくても、最後に救けてくれる神」を信頼するよう、熱心に呼びかける。そして「ついに喜びとともに神の救いを見るだろう」と歌われると、バスは華やかなコロラトゥーラで喜びを表わし、神の救いをアリオーゾ風の豊かな身振りで表現する。

第3から第6曲まではアリアが4曲続く。枠となる第3曲(バス)、第6曲(テノール)のアリアはいずれも長調で書かれ、旋律的で舞曲的なリズムを持つ。第3曲は歌詞の「バール形式」に忠実に作曲され、一つ目の Stollen(節)がイ長調の快活で技巧的なテーマを歌い出すと、二つ目の Stollen(節)が属調ホ長調でそれを受け、Abgesang(後節)では音楽がテクストに従って自由に展開する。

第6曲のテノールのアリアは、二本のフラウト・トラヴェルソのオブリガートを伴い「神を待ち、神にゆだねる」潔さを感じさせる。この曲では Abgesang(後節)の一行目「ゆえに私は、神を待ち望んで心を静め Drauf wart ich und bin still」が音楽的に独立してとり扱われ、「待つ wart」の印象的な延音が心に残る。

譜例2 BWV107 第6曲、22, 23小節


間に挟まれた第4曲と第5曲は、「サタンとの戦い」とその中で見えてくる「神の救い」という、「イエスの給食」のエピソードからはかけ離れた内容を扱う印象的な2曲。とくに第4曲はバッハの「通奏低音とテノール」のアリアにしばしば見られる闘争的な音楽で、冒頭からオスティナート的に繰り返される通奏低音の動機とテノールの声とを用いて、神の意志とサタンとの対立を見事に音化している。続く第5曲は八分の十二拍子によって神の主権を確認し、ソプラノがコラールに則った旋律で「救いへの確信」を歌っていく。

譜例3 BWV107 第4曲、11~12小節


カンタータ第107番のテクストとなったコラール《なにゆえ汝は悲しむのか Was willst du dich betrüben》の「バール形式」を、バッハは時に忠実に活かし、時に崩すことによって、個性豊かな7つの楽曲を提供してくれている。それはあたかも「7つのパンを様々に裂いて人間に与える」イエスの姿を映すかのようだ。「7つめのパン」となる終曲では、シチリアーノ風のリズムによって、コラールの最終節が喜ばしく歌われる。


All Bach Cantatas シリーズでは、バッハと今日のわれわれとの橋渡しをしてくれる平川加恵の新作が毎回プログラミングされるが、第8回となる今回はそれに加え、バッハの先人、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァッハウのカンタータが初めてとりあげられる。

作曲者ツァッハウは1663年、町楽師の子としてライプツィヒに生まれた。彼の受けた音楽教育についてははっきりわからないものの、父やアイレンブルクのカントル、ヨハンネス・シェレ等から教えを受けたと推定される。1684年にハレのマリア教会のオルガニストとなり、1712年の突然の死までその任にあった。そして、マリア教会およびハレ市の実質的な音楽監督として、教会カンタータの作曲、演奏もおこなっている。ツァッハウ着任の一年後にハレで生まれたヘンデルは、1694年頃からツァッハウに師事してオルガンとチェンバロを学び、ツァッハウ所蔵の楽譜を写譜して17世紀末のドイツ、イタリアの音楽様式を吸収したといわれる。

カンタータ《見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる Siehe, ich bin bei euch alle Tage》IFZ 28 はツァッハウの200曲を超える教会カンタータの中の一曲で、昇天祭のために作曲された。作曲年代は1702年~1705年頃と推定され、弦楽器のオーケストラに二本のトランペットが加わっている。おそらく演奏にはハレ市の音楽隊が参加したのだろう。

このカンタータは合唱ではなく、バッハ初期のカンタータを思わせる器楽合奏で開始される。弦楽器によるアラ・ブレーヴェのソナタは、三拍子的なフレーズ感で快活に進行し、最後は後のヘンデルの多くのオラトリオの序曲のように、テンポを落として Adagio で終結する。

2曲目から合唱が登場し、カンタータの主題となる「マタイによる福音書」第28章20節の最後の言葉「そして見よ、この私があなたたちと共にいるのだ ― すべての日々にわたり、世の終わりまで」(佐藤研訳)が四声体でホモフォニックに歌われる。器楽は「私があなたたちと共にいる Ich bin bei dir」という言葉に喜ばしく反応し、最後は第1曲と同じ和音で短い合唱曲を締めくくる。

続くアルトのアリアではヴァイオリンと通奏低音がユニゾンで十六分音符の上行をくりかえし、語り終えたイエスの「昇天」を暗示する。晴れやかなまなざしで見送るアルトの旋律は、バッハのカンタータを思わせる豊かな表情を持っている。

譜例4 ツァッハウ《見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる》アリア(A)冒頭


バッハが教会カンタータにオペラ様式のレチタティーヴォを採り入れたのは、ワイマール時代のカンタータ第182番《天の王よ、よくぞ来ませり Himmelskönig sei willkommen》(BWV182)が最初であるが、ツァッハウは18世紀初頭の段階でそれをおこなっていた。アルトのアリアに続くテノールのレチタティーヴォ・セッコはやがて器楽をともなうアッコンパニャートへと変わり、イエスが ― 預言者エリヤのように ― 天使の稲妻に包まれ、「火の車に乗って」昇天する様を、壮大な絵をテノールのコロラトゥーラとオーケストラの十六分音符の連なりで描き出す。これはヘンデルのオラトリオを予告する壮大なスケールの音楽である。

譜例5 ツァッハウ《見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる》レチタティーヴォ(T)より


続いて再び合唱が登場し、二本のトランペットをともなってハ長調、三拍子のシンプルだが祝典的な音楽でイエスの勝利を祝う。バッハが、やはり昇天祭のカンタータ第43番の第1曲で作曲したのと同じ歌詞だが、音楽的には All Bach Cantatas Vol. 6 で演奏された初期のカンタータ第172番《鳴り響け、汝らの歌声 Erschallet ihr Lieder》(BWV172)に近い。バスによる表情豊かなアリアを経て、終結のコラールがイエスの天の国への凱旋をたたえるが、ここでバッハのカンタータ第107番と同じ、《われは神より離れまじ》の旋律が用いられているのである。

ツァッハウのカンタータ《見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる》は、18世紀初頭ならではの素朴で晴れやかな音楽だが、すでにヘンデルのオラトリオを予告するスケール感や、バッハを思わせるテクストに即した表情豊かな旋律線を持ち、「教会カンタータ年巻」への道をたしかに拓いた作品の一つである。本演奏会を機にもっと頻繁に演奏されるようになることを願ってやまない。


カンタータ第187番《彼らみな汝を待ち望む Es wartet alles auf dich》は1726年の三位一体後第7日曜日、8月4日に演奏された。その音楽には、三つ目のカンタータ年巻に着手したバッハの、教会カンタータという音楽への手ごたえと自信が感じられる。それは、このカンタータの7つの楽曲のうち4曲(第1、第3、第4、第5曲)が、後に《ミサ曲ト短調》(BWV235)に転用されていることからも窺えよう。

カンタータ第187番の歌詞は、マイニンゲン侯エルンスト・ルートヴィヒ所蔵の「(侯爵自筆による)二年分の教会音楽詞」の中に収録されている。ゲオルク・カスパー・シュールマンや、ゼバスティアンのいとこヨハン・ルートヴィヒ・バッハ等によってすでに作曲されていたこの歌詞はきわめて「正統主義的」な聖書解釈にもとづいており、当日の聖書箇所「イエスの給食」を逐語的に引用こそしないものの、内容的に密接な関わりを持つ。

全体は二部構成をとっており、前半ではすべての糧を恵み与える神を賛美し、後半は神から「所与」として与えられている恵みの省察をおこなう。

第1曲の合唱では詩編104編が引用され、その背景にはアレクサンドリア派の詩人たちが語った「自然における神の慈愛」が描かれている。カンタータ第107番にもあらわれた「神を待つ」歌詞に対する音楽はより積極的なものとなり、生き生きとしたコロラトゥーラで彩られている。

譜例6 BWV187 第1曲 28~30小節


説教前の最後にあたる第3曲、アルトのアリアの歌詞は詩編65編の引用であり、オーケストラの印象的な前奏から「祝福を与える神」を讃え上げる。

第二部を開始する第4曲のアリアでは、「キリストの声」たるバスが、「マタイによる福音書」第6章31~32節(本来は三位一体後第15日曜日の聖句)、名高い「山上の垂訓」の言葉をうたう。


「だから、『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』とか、『何を身につけようか』と言って思い煩うな。なぜなら、これらすべてのものは、異邦人たちが必死に求めるものだからだ。なぜなら、天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからだ」
(佐藤研訳)


ここでは「食べ物を与える」イエスへの期待が、すでに信頼へと変わっている。この信頼は続く自由詩でさらに拡大され、第5曲のアリアではソプラノが、オーボエのオブリガートの技巧的な動きと共に神の恵みを確信して不安を拭い去り、第6曲では《マタイ受難曲》のイエスを思わせる弦楽器の「後光」に包まれて、引き続きソプラノが「必要なものを与えてくれる神」への子供のような信頼を歌う。そして第7曲ではハンス・フォーゲル作のコラール《神は大地を整え Gott hat die Erde zugericht》を三拍子で喜ばしく歌い、「成熟期」のカンタータをしめくくる。


バッハによる三位一体後第7日曜日のためのカンタータは、人間にとって不可避である「食」を中心とした日々の暮らしへの不安を、群衆に対して食べ物を惜しみなく与えるイエスの姿を通して払拭し、あたえられる神の恵みへと聴く者の心を向けさせる。音楽家も聴衆も、バッハの時代となんら変わらない、日々の生活への不安におびえる今日、「成熟期」にあるプロムジカ・バロック・アカデミーの演奏で、この音楽をじっくりと味わいたい。


参考文献

Dürr, Alfred. 1999[2006]. Johann Sebastian Bach. Die Kantaten. Kassel: Bärenreiter.
Die Musik in Geschichte und Gegenwart (1994-2008): allgemeine Enzyklopädie der Musik / begründet von Friedrich Blume. Stuttgart: Metzler.
Schulze, Hans-Joachim. 2007. Die Bach-Kantaten. Leipzig: Evangelische Verlagsanstalt.
『改訂新盤 新約聖書』、2023、新約聖書翻訳委員会訳、東京:岩波書店。
磯山雅ほか、1996、『バッハ事典』東京書籍。
ヴォルフ、Ch、2004、『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ ―― 学識ある音楽家』秋元里予訳、東京書籍。
日本基督教団讃美歌委員会、1998、『讃美歌21 略解』日本基督教団出版局。
廣石望、2011、『信仰と経験 ー イエスと”神の王国“の福音書』、東京: 新教出版社。
ビーリッツ、K.-H、2003、『教会暦 ―― 祝祭日の歴史と現在』松山興志雄訳、東京:教文館。
三澤寿喜、2007、『作曲家◎人と作品 ヘンデル』音楽之友社。