総譜の伝来
この曲の楽譜は、ベルリンに伝わるツァッハウの教会音楽の総譜9冊のうちの1冊である。現存する総譜の約3分の2はベルリンにあり、もとはゲオルク・エースターライヒ、ハインリヒ・ボーケマイヤー、ゲオルク・ペルヒャウの楽譜コレクションに属していた。これらの小冊子は1842〜1858年、図書館の音楽部長S. W. デーンのもとで、ほかの作曲家の楽譜と一緒に合本された。
ベルリンの楽譜の書き手として特定されているのは、エースターライヒ、ツァッハウ本人、そして若きヘンデルである。作曲者名はどの楽譜にも完全な形で記され、綴りはすべて「Zachau」。この曲の成立年は分かっていない。
この曲の筆写譜は、一人の書き手が美しい筆致で入念に仕上げた総譜である。表紙も曲の見出しもなく、冒頭に「J. N. J.(イエスの御名において)」、末尾に「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光)」と記されている。「Autogr. Zachau(自筆)」と「Festo Ascension. Xsti(キリスト昇天祭)」は、後の時代に別人が書き加えたものだ。主要な楽章ごとに編成とテンポが書かれ、通奏低音にはすべて数字が付されている。
Stadnitschenkoによれば、この総譜は失われた古い原本から、パート譜を作る前提で清書されたものである。保存用ではなく、実際の演奏に使うための楽譜だった。ベルリンの資料の中で写し間違いが最も少なく、ツァッハウの自筆である可能性もあるが、比較資料がなく確定していない。
作曲者ツァッハウについて
ツァッハウは、バッハ以前の中部ドイツを代表する教会音楽家である。1663年11月14日にライプツィヒで生まれ、アイレンブルク(1676–1684)で過ごしたのち、1684年に21歳でハレの聖母教会(マルクト教会)のオルガニスト兼音楽監督に就いた。1712年8月7日に48歳で世を去るまでの28年間、この職を務めている。肖像は一枚も残っておらず、墓所も分かっていない。
職務は教会のオルガンにとどまらない。町の音楽監督(Director musices)として、合唱と器楽による「フィグラール音楽」の上演を含め、ハレの音楽生活全体を取り仕切った。宮廷がヴァイセンフェルスに移ってからは、市民の音楽の中心人物となる。1695年には敬虔主義者から「長く凝りすぎた音楽」と批判されたが、音楽監督としてその偏狭さに強く抵抗した。三十年戦争後のハレは貧しく、合唱団への支払いやオルガン修理の費用にさえ事欠いた。大オルガンの修理が認められたのは、彼の死の翌年、1713年のことである。
当時の目録から、ツァッハウはハレ在職中に少なくとも216曲の声楽作品を書いたと推定される。しかし楽譜が残るのはカンタータ32曲とミサ・ブレヴィス1曲だけだ。ほかに約70曲のカンタータが、ハレ、ヴァンツレーベン、シュテッティン、ツェルプスト(J. F. ファッシュ)の目録に題名のみ記録されている。残された声楽作品のおよそ3分の2は、いまも出版されていない。
作品の伝わり方も研究を難しくしている。声楽作品はすべて手稿でしか伝わらず、その多くは同時代人や19世紀の写譜者による写しで、原本は失われた。筆跡の変化も分かっていないため、筆跡から成立年を決めることはできない。バッハ研究ではライプツィヒ時代の筆跡を五つの時期に分けて年代を絞り込めるが、ツァッハウにはその手がかりがない。
ツァッハウの視野を北へ広げたのは、友人ヨハン・タイレ(1646–1724)である。タイレはシュッツの弟子で、ブクステフーデやラインケンと面識があり、1691–92年からはメルゼブルクの宮廷楽長としてたびたびハレを訪れた。ツァッハウの作品には、北ドイツ(シャイト、ブクステフーデ)、南ドイツ(ケルル、フローベルガー、パッヘルベル)、イタリア(ガブリエーリ、モンテヴェルディ、カリッシミ)、フランス(リュリの管弦楽様式)の伝統が流れ込み、ひとつに統合されている。
Stadnitschenkoは、ツァッハウをブクステフーデ、パッヘルベルと並ぶバッハ以前の大作曲家と位置づける。とりわけ大編成の声楽作品は、シュッツからバッハへ続くプロテスタントの多合唱による教会コンチェルトの「最後の駅」であり、様式はブクステフーデよりもバッハに近い。多重対位法を好んで用いた点も、のちの《平均律クラヴィーア曲集》や《フーガの技法》に通じる。シュヴァイツァーは、シュッツからバッハへの道は山脈ではなく丘を越えていくと語った。先行研究者トーマスは、その丘の一つとしてツァッハウに注目すべきだと述べている。
バッハとの接点は作品だけではない。1713年、バッハはツァッハウの後任としてこのマルクト教会のオルガニストに応募し、採用が決まりながら最終的に辞退した。18世紀には「Zachau」の名がバッハと並んで3度、印刷物にも登場している(綴りはZachauとZachowの両方が用いられた)。
そして何より、ツァッハウはヘンデルの最初の師である。ハレ生まれのヘンデルはツァッハウのもとでオルガン、チェンバロ、ヴァイオリン、オーボエと対位法を学び、1702年には17歳でハレ大聖堂のオルガニストの職を得た。師の没後、ヘンデルはその未亡人と子どもたちを経済的に支えている。弟子にはほかにゴットフリート・キルヒホフとヨハン・ゴットヘルフ・ツィーグラーがいる。
ツァッハウの評価は、時代とともに大きく揺れた。ヘンデルの最初の伝記(ジョン・メインウォリング、1760年)は彼を高く評価し、翌1761年にはマッテゾンがドイツ語に訳した。ところが19世紀のクリュザンダーは、ヘンデルはただ自らの天才に負うのみだとして、ツァッハウを否定的に評価した。この見方を覆すきっかけとなったのが、1905年にマックス・ザイフェルトが『ドイツ音楽の記念碑』で行ったカンタータの出版である。
作品解説
このカンタータの主題は、「天に昇って行かれるイエスは、それでも私たちと共にいる」という逆説である。冒頭の合唱に置かれたのは、昇天祭の福音書日課(マルコ16章)ではなく、マタイ福音書の結びの言葉「見よ、わたしは世の終わりまで、日々いつもあなたがたと共にいる」(28:20)だ。去って行く方の最後の約束が、祝祭の出発点となっている。
自由詩の前半(第3・4曲)は、この約束を一人ひとりの信頼へと引き寄せる。アルトは「行きたまえ、それでも私は恐れない」と歌い、テノールは「私はその体の一部だから」とその根拠を語る。昇天したキリストを教会の頭とし、教会をその体とするエフェソ書1章の思想が、ここに響いている。
後半は一転して、天上の凱旋の場面となる。第5曲の「幾千の天使がきらめく車」と「捕らわれ人を捕らえて引き連れる」は、いずれも詩編68編(18–19節)に由来し、後者はエフェソ書4:8でキリストの昇天と結びつけられた言葉である。第6曲は詩編47編「神は歓呼のうちに昇り、主はラッパの響きのうちに昇られる」をそのまま歌い、ここで初めて2本のクラリーノ(高音トランペット)が加わる。
第7曲のバス・アリアは、第1節で天の門が開いて王を迎える喜びを描き、第2節で「魂たちよ、あなたがたも主の後に続け」と聴き手に呼びかける。天の出来事が、地上の私たちの歩みへと折り返される。最後はザッハーの昇天歌(1661年)第1節で、会衆の歌として全体が閉じられる。
調の設計も明快である。イ短調のソナタと合唱で始まり、ハ長調のアリアとアリオーソ、クラリーノの入るハ長調の合唱で光を増し、イ短調のバス・アリアとコラールに戻る。コラールの終止はテノールの嬰ハ音によってイ長調の和音となり(ピカルディの3度)、短調の枠組みの最後に明るい響きが差し込む。