《飢えた者にあなたのパンを分け与えよ》
用途:三位一体節後第1主日
初演:1726年6月23日、ライプツィヒ
福音書:ルカ16, 19-31(富める者とラザロの譬え)
歌詞:マイニンゲン台本集(1704)による作者不詳。第1曲;イザヤ58, 7-8。第4曲;ヘブライ13, 16。第7曲;D. デニッケのコラール「Kommt, laßt euch den Herren lehren」第6節。
編成:合唱; S, A, B独唱; Rec2, Ob2, Vn1, Vn2, Va, bc.
基本資料:自筆総譜・パート譜(現存)
演奏時間:約24分
【出典】
Bach Digitalを参照して作成。
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IMSLP: BWV 39
目次(全7曲)
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1. 合唱(Chorus)
“Brich dem Hungrigen dein Brot”
2. レチタティーヴォ(バス)
“Der reiche Gott”
3. アリア(アルト)
“Seinem Schöpfer noch auf Erden”
Nach der Predigt
4. アリオーソ(バス)
“Wohlzutun und mitzuteilen vergesset nicht”
5. アリア(ソプラノ)
“Höchster, was ich habe”
全体の解説
ヨハン・ゼバスティアン・バッハによるカンタータ《飢えた者にあなたのパンを分け与えよ》BWV 39 は、三位一体節後第1日曜日のために書かれ、現在の研究によれば、1726年6月23日にライプツィヒで初演されました。
歌詞の典拠は、マイニンゲン宮廷のために遅くとも1704年に作成され、そこでも他の地でも長く用いられ続けたカンタータ歌詞集の一年度分に由来しています¹。
バッハがこれらのテキストに注目するきっかけとなったのは、年長の従兄ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ(1677–1731)の作曲したカンタータによるものと思われます。
ザロモン・キュメルレは『福音主義教会音楽百科辞典』第1巻(ギュータースロー、1888年、67頁)において、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハが1713年にこの年度分全体を作曲したと述べていますが²、それはもはや証明できません。
少なくとも約20曲現存するこの作曲家のカンタータの大部分は、いずれにせよその歌詞集に基づいています。
ヨハン・ゼバスティアンは1726年に、聖燭節から三位一体節後第13日曜日にかけてのライプツィヒでの演奏のために、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハのカンタータを少なくとも18曲自ら筆写しています。
さらに、1726年夏の半期に演奏された7曲の自作カンタータのためにも、この年度のテキストを用いています。
これらの新作を手がけた理由としては、二つのことが考えられます。
ひとつは、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ自身が演奏のために提供していたカンタータ連作の空白を埋める必要があったこと、もうひとつは、それ以前の作品のいくつかがライプツィヒのトーマス教会楽長の意図に沿わなかった可能性です。
後者を示す傍証として、少なくともカンタータ《見よ、われは多くの漁師を遣わす》のテキストが両作曲家によって作曲されているという事実があります。
昇天日向けの《神は喜びの叫びとともに昇り給う》や、三位一体節後第1日曜日向けの《飢えた者にあなたのパンを分け与えよ》についても、同様のことが言えるかもしれません。
1723年の5月にライプツィヒのトーマスカントールに着任という事情から、三位一体節後第1日曜日はバッハにとって特別な意味を持つ日となっていました(着任後に初めて演奏したカンタータは BWV 75)。
それは職務開始の記念日であり、少なくとも1723年と1724年においては教会カンタータの新たな年度サイクルの始まりを画するものでもありました —— 当時の慣行に反して教会暦より半年ずれています。
そのうえ、ライプツィヒの礼拝規則は、三位一体節後第1日曜日に二部構成の大規模なカンタータの演奏を求めていました。
バッハの並々ならぬ意欲は、まずこのカンタータの冒頭合唱に鮮やかに表れています。その規模(総スコアの半分以上を占めます。)と多様性においてこれを超える作品はほとんどないと言っていいでしょう。
バッハは広範な聖書テキスト(イザヤ 58:7–8)をモテット様式で作曲し、テキストに含まれる各思想的単元に新たな主題(テーマ)素材を与えています。
これにより、調性と拍子の異なる三つの大きな主要部分が生まれ、それぞれがさらに小さな単元へと分かれています。
最初の合唱の前には大規模な器楽序奏が置かれており、リコーダー(フラウト・ドルチェ)、オーボエ、弦楽器のグループ間で単純な動機がやりとりされます。
この導入部は、休止によって中断される合唱音楽とともに、パンを裂く身振りとして解釈できるかもしれません。
冒頭合唱に続くレチタティーヴォは、三位一体節後第1日曜日の福音書 —— 富める者と貧しいラザロのたとえ話(ルカ 16:19–31)—— の観点から聖書の節を読み解いていきます。
続くアリアでは、アルト声部、オーボエ、独奏ヴァイオリンが通奏低音伴奏のもとでトリオを形成し、神の模範に倣うよう聴く者に呼びかけます。
カンタータ第2部の始まりもやはり聖書の言葉によって開かれますが、今度は新約聖書のヘブライ人への手紙(13:16)からのテキストです。
バッハはこれをバス声部のアリオーソとして付曲しており、当時の礼拝参加者の心にキリストの声(Vox Christi)との連想を呼び起こしたに違いありません。
これに続くアリアは対照的に、一斉奏(ユニゾン)で奏でられるリコーダー(フラウト・ドルチェ)とソプラノ声部を用いることで際立って明るい音色を生み出し、信仰ある魂の感謝の気持ちを表現しています。
このアリアと終曲コラール《幸いなるかな、憐れみより出でし者よ》³との間には、さらにもう一つのレチタティーヴォが挟まれています。
ここでは「信仰ある魂はいかにして創造主の恵みへの感謝を示しうるか」という問いが提起され、バッハは弦楽伴奏(accompagnato)によってその言葉に静かな重みを与えています。
このカンタータの深刻な内容と壮大な構想は、長年にわたって作曲の動機をめぐる様々な考察を生んできました。特に根強い説として、ルードルフ・ヴストマンのものがあります。
彼は著書『ヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータ作品』(ライプツィヒ、1913年、285頁)において、当時まだ不明だった作曲時期をめぐり、1732年6月にザルツブルクから追放されたプロテスタント教徒のライプツィヒ通過とこのカンタータを結びつけました⁴。
しかし近年の研究により、この作品が数年前にすでに完成していたことが明らかになっています。したがって移住者のために特別に作曲されたものではあり得ません。
さらに、ライプツィヒ市がプロテスタント難民への対応においてドレスデンのカトリック宮廷への配慮から慎重な立場をとらざるを得なかった事情も明らかになっています。
ドレスデンが認めた人道支援を超えた公式の同情表明は一切避けられており⁵、そのような状況のもとでヴストマンが想定したような難民向けの礼拝が行われる余地はなかったと言えるでしょう。
バッハのこのカンタータの自筆総譜と原典声部の大部分は現存しており、現在ベルリン国立図書館音楽部門に所蔵されています⁶。
バッハが1750年に亡くなった際の遺産分配において、総譜と声部譜はカール・フィリップ・エマーヌエルと年下の異母弟ヨハン・クリスティアン・バッハに渡りました。
ヨハン・クリスティアンはベルリンでC. P. E. バッハのもとに住んでいましたが、1755年にイタリアへ旅立った際、楽譜の大部分はベルリンに残されました。
声部セットは、C. P. E. バッハのベルリン時代における親しい知人の一人ヨハン・フリードリヒ・ヘーリングを経てフォス=ブーフ伯爵家のコレクションに収まり、1851年に当時のベルリン王立図書館が取得しました。
自筆総譜は1805年までC. P. E. バッハおよびその家族の手元に留まり、その後おそらくゲオルク・ペルヒャウとアブラハム・メンデルスゾーンを経てベルリン・ジングアカデミーへと渡り、さらに1854年に王立図書館へと移りました。
幾度にもわたる所有変遷の中で、C. P. E. バッハに渡った付加声部は、一部の数字付き通奏低音声部を除いて失われてしまいました。
終曲コラールは——わずかな相違を除いて——ライプツィヒ市立図書館所蔵の写本 Ms. R 18 にも収められています⁷。
カンタータ《飢えた者にあなたのパンを分け与えよ》は1857年、ヴィルヘルム・ルストによってバッハ協会版第7巻(301–348頁)において初めて印刷出版されました。
新バッハ全集においては、アルフレート・デュルの編集により1967年に第 I/15 巻(179–228頁)として刊行されています⁸。
原注
¹ Walter Blankenburg「ヨハン・ゼバスティアン・バッハとヨハン・ルートヴィヒ・バッハの7つのカンタータに関する新たなテキスト典拠について」、Bach-Jahrbuch 1977、7–25頁参照。Konrad Küster「マイニンゲンのカンタータ・テキストとヨハン・ルートヴィヒ・バッハ」、Bach-Jahrbuch 1987、159–164頁、ならびに同著者「バッハのカンタータのフランクフルトおよびライプツィヒにおける伝承」、Bach-Jahrbuch 1989、65–106頁も参照のこと。テキスト印刷については批判的報告を参照。
² Salomon Kümmerle, Encyklopädie der evangelischen Kirchenmusik, Bd. 1, Gütersloh 1888, S. 67.
³ ダーフィト・デーネッケ作詞(1648年)またはヨハン・ヘアマン作詞「喜べ、わが魂よ」の旋律による讃美歌「来たれ、主に喜びを叫べ」の第6節。1704年刷のリブレット(1726年のルードルシュタット版ではなく)には、この讃美歌のさらに2つの節が含まれています。
⁴ Rudolf Wustmann, Joh. Seb. Bachs Kantatenwerk, Leipzig 1913, S. 285.
⁵ S. Jost Casper「ヨハン・ゼバスティアン・バッハとザルツブルクの移住者——ある不敬な伝説」、Mitteilungen der Gesellschaft für Salzburger Landeskunde 122, 1982, S. 341–370.
⁶ ベルリン国立図書館、プロイセン文化財、メンデルスゾーン・アルヒーフ所蔵、請求番号 Mus. ms. Bach P 62 および Mus. ms. Bach St 8。
⁷ Ms. R 18 はヨハン・ルートヴィヒ・ディーテルが1735年頃に編纂した149曲の無歌詞コラール集で、このコラールは第116番として「汝よ、わが魂よ、大いに喜べ」という表題が付されています。NBA III/2.1(フリーダー・レンプ編、1997年、81頁)参照。
⁸ BG 7, S. 301–348, Kritischer Bericht auf S. XXXII; NBA I/15, S. 179–228.
制作ノート
このカンタータについては資料が豊富に残されており、記譜音に関する問題は特に見当たりません。
これまでABC公演では主にミュールハウゼン・ヴァイマル期のカンタータを演奏してきましたが、その中でバス楽器に8フィート・ヴィオローネを用いたことは、大きな発見でした。
バスラインが引き締まって全体の響きが軽やかになるだけでなく、チェロ・ファゴット・オルガン・8フィートヴィオローネという4つの楽器によるバスラインの音色の豊かさは、特筆すべきものがありました。とりわけ木管オルガンの左手とヴィオローネの音色の相性は抜群で、言葉では言い表しがたいほど美しく音が溶け合う感覚を体験しました。
弓の持ち方がヴィオラ・ダ・ガンバと同じになるため、音の発音はやや柔らかくなりますが、その分、旋律を歌い横に流れる音楽作りには最適な選択の一つであると感じます。
今回演奏するライプツィヒ期のカンタータでも8フィート・ヴィオローネを採用してみたいと考えていましたが、特に全体の半分以上を占める巨大な冒頭合唱曲において、16フィートの重低音とエッジの効いた音が必要であると感じ、そちらを用いて演奏します。
冒頭合唱曲の第106小節以降フーガによる階梯導入の部分では、初めにソリストでの歌唱を採用して途中からトゥッティで歌うことも考えましたが、バッハはそれを意図する際にはその指示を書き分ける作曲家でありますし、また、このセクションには「ここからトゥッティになる」という明確な転換点が見当たらないことから、全編を合唱(全員)で歌うことにしました。デュナーミクを工夫することで立体感のある音楽の体現を目指したいと思います。
2026年5月26日 圓谷俊貴
1. 合唱(Chorus)
“Brich dem Hungrigen dein Brot”
歌詞
Brich dem Hungrigen dein Brot
und die, so im Elend sind, führe ins Haus!
So du einen nacket siehest, so kleide ihn
und entzeuch dich nicht von deinem Fleisch.
Alsdenn wird dein Licht herfür brechen
wie die Morgenröte,
und deine Besserung wird schnell wachsen,
und deine Gerechtigkeit wird für dir hergehen,
und die Herrlichkeit des Herrn wird dich zu sich nehmen.
(Isaiah 58:7-8)
飢えた者のためにあなたのパンを裂いて与え、
苦しみの中にある者を家に導き入れよ。
裸の者を見たなら、その人に衣を着せ、
あなた自身の肉親から身を隠してはならない。
そのとき、あなたの光は曙のように差し出で、
あなたの癒やしは速やかに芽生え、
あなたの義はあなたの前を進み、
主の栄光があなたを迎え入れる。
(イザヤ書 58:7-8)
イザヤ書 58:7-8
イザヤ書第58章は、神がイスラエルの民に向けて「真の礼拝とは何か」を問いかける章です。
民は断食や祈りを熱心に行いながら、その一方で貧しい者や苦しむ者には目を向けようとしませんでした。神はそのような形式だけの信仰を厳しく戒め、真の敬虔さとは具体的な行いの中にこそ現れると語ります。
7節と8節はその核心をなす言葉です。
飢えた者にパンを裂いて与えること、行き場のない者を家に迎え入れること、裸の者に衣を着せること
—— そしてひとつ注目したいのが「あなた自身の肉親から身を隠してはならない」という言葉です。
ヘブライ語原文の「肉」という言葉は「血を分けた者」を意味しており、困窮している身内から目を背けてはならないという戒めです。
当時のイスラエル社会では、貧しい親戚を「恥」として距離を置く慣習があったとされており、神はそのような態度を明確に退けています。
見知らぬ人には親切にしながら、みっともない身内には冷たくする —— そうした偽善を、この一節は静かに、しかし鋭く突いています。
8節では、そのような生き方をする者への約束が続きます。
「光が曙のように差し出で」「癒やしが速やかに芽生え」「義が前を進み」「主の栄光が迎え入れる」——貧しき者への奉仕が、そのまま神の光へとつながるという、旧約聖書の中でも特に美しい約束の言葉のひとつです。
楽曲の分析
パンを裂く
冒頭の器楽序奏では、フラウトドルチェ(リコーダー)・オーボエ・弦楽器の各グループが「パンを裂く」こと形象した短い動機を次々と受け渡していきます。
フレーズの冒頭に同じ動機が繰り返されるという点ではアナフォラ(anaphora)、それが音高を変えながら段階的に進んでいくという点ではグラダティオ(gradatio)—— この二つの修辞形象が重なり合うかたちは、13小節目まで続くという「過剰な繰り返し」により聴き手に強い印象を残します。

第17小節からはD音の保続低音が力強く響き、偽善を許さない「戒め」のような厳しい表情でカデンツへと向かっていきます。
“die, so im Elend sind”(苦しみの中にある者)のテキストには、半音階的な下降進行 —— パッスス・ドゥリウスクルス——が用いられています。「硬い歩み」を意味するこの修辞形象は、苦悩や嘆きを表す最も典型的な音楽言語のひとつです。
さらにそこに6度・4度の跳躍——サルトゥス・ドゥリウスクルス——が重なりますが、この跳躍はパッスス・ドゥリウスクルスの半音進行をさらに超えた、より強烈な嘆きのアフェクトを担っています。
続く “führe ins Haus”(家に導き入れよ)では、”führen” の語がメリスマによって大きく引き伸ばされます。これはヒュポティポーシス——テキストの内容を音楽が直接描写する修辞形象——であり、「導く」という行為そのものを音形で体現しています。
第47小節からは、器楽が冒頭の動機を再び奏で始めます。その上で合唱はフーガへと移行し、ホモフォニックな音楽と対位法が見事に融合し、曲の密度がグッと高まります。

「裸の者を見たなら、その人に衣を着せ」の箇所では拍子が4拍子へと変わり、音楽の表情が一変します(メタボレ)。
バスが「裸の者を見たなら」と問いかけ、他の声部がそれに「衣を着せよ」と応える呼応形式はアンティフォナ —— 問いと答えが交わされる修辞的な対話の構造です。
この呼応が幾度か繰り返されるうちに、やがて声部は一つにまとまり、ホモフォニックな合唱へと収束していきます。
そして全員が声を揃えて歌うのが「あなた自身の肉親から身を隠してはならない」という言葉です。
対話から一致へ —— この音楽の流れ自体が、個々の問いかけを超えて共同体全体への戒めとして言葉を刻み込みます。バッハの雄弁な語り口が見て取れる部分です。

「そのとき、あなたの光は曙のように差し出で」で拍子は3/8へと変わり(メタボレ)、音楽は一気に躍動的な表情へと転じます。
円環を描くように流れる旋律 — チルクラツィオ — は暁の光が差し込む様子を体現し、上へと向かうエネルギーはアナバシスとして光の到来を描きます。
ここから始まる壮大なフーガは、苦しみと戒めを描いてきた前半全体との対照 —アンティテーシス — をなしており、暗から光へ、重さから解放へという、この冒頭合唱における転換点となっています。

「あなたの癒やしは速やかに芽生え、あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたを迎え入れる」 —— 勢いを保ったフーガが最後まで駆け抜けていきます。
その中でたびたびホモフォニックな部分が現れますが、これはノエマと呼ばれる修辞形象です。
対位法的な流れの中ですべての声部が一致して動く瞬間は、言葉に明晰さと重みをもたらし、テキストの意味をくっきりと浮かび上がらせます。
フーガとノエマが交互に現れる構造は — ヴァリエタス — です。
2. レチタティーヴォ(バス)
“Der reiche Gott”
歌詞
Der reiche Gott wirft seinen Überfluß
Auf uns, die wir ohn ihn
auch nicht den Odem haben.
Sein ist es, was wir sind;
er gibt nur den Genuß
Doch nicht, daß uns allein
Nur seine Schätze laben.
Sie sind der Probestein,
Wodurch er macht bekannt,
Daß er der Armut
auch die Notdurft ausgespendet,
Als er mit milder Hand,
Was jener nötig ist,
uns reichlich zugewendet.
Wir sollen Ihm für sein gelehntes Gut
Die Zinse nicht in seine Scheuren bringen;
Barmherzigkeit, die auf dem Nächsten ruht,
Kann mehr als alle Gab ihn
an das Herze dringen.
豊かな神は、そのあふれる恵みを
私たちの上に投げかけられる。
私たちは神なしには息をすることさえできない。
私たちの存在は神のものであり、
神は享受する喜びをお与えになる。
しかしそれは、ただ私たちだけが
神の宝によって潤うためではない。
その宝は試金石であり、
それによって神は示される。
すなわち、神は貧しい者にも必要なものを
分け与えておられるのであり、
慈しみ深い御手をもって、
あの人に必要なものを私たちに
豊かに託してくださったのである。
私たちは神から借り受けたこの財の利息を、
神の倉に持ち込むべきではない。
隣人の上にとどまる憐れみこそ、
どんな供え物よりも深く
神の御心に届くことができる。
ルカ 16:19–31
富める者と貧しいラザロ
金持ちとラザロのたとえ話は、ルカ福音書の中でも特に鮮明な対比をもって語られる物語です。
ある金持ちの男は紫の衣をまとい、毎日ぜいたくに楽しんで暮らしていました。
一方、ラザロという名の貧しい男は、でき物だらけの身体で金持ちの門前に横たわり、食卓から落ちるパン屑で腹を満たすことさえできず、犬がやってきて彼の傷をなめていました。
やがて二人は死を迎えます。
ラザロは天使たちに運ばれてアブラハムのふところへ、金持ちは冥界で苦しみの中に置かれました。
炎の中で金持ちはアブラハムを見上げ、ラザロに水を運ばせてほしいと懇願しますが、アブラハムはこう答えます。
「おまえは生きている間に良いものを受け、ラザロは苦しみを受けていた。今は逆転している。」
さらに金持ちは、この事実を兄弟たちに伝えるためにラザロを遣わしてほしいと願いますが、アブラハムは「モーセと預言者たちの言葉に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から蘇る者があっても、彼らは聞き入れないだろう」と答えます。
この物語の核心は、単なる「貧富の逆転」ではありません。
金持ちが罰せられたのは、ラザロを虐めたからではなく、すぐ門前に横たわっていた苦しむ者に気づきながら何もしなかったからです。
見て見ぬふりをすること —— それがこの物語における罪の本質です。
また「モーセと預言者たちに耳を傾けよ」という結びの言葉は重要です。
冒頭合唱のテキストであるイザヤ書58章もその「預言者たちの言葉」のひとつであり、飢えた者にパンを与え、苦しむ者を家に迎え入れよという命令は、すでに与えられていた言葉でした。
このたとえ話は、知らなかったのではなく、知りながら行わなかったことの罪深さを描いています。
楽曲の分析
三位一体節後第1日曜日の福音書 —— 富める者と貧しいラザロのたとえ話(ルカ 16:19–31)—— の観点から、冒頭合唱のイザヤ書の言葉を読み解くレチタティーヴォです。
神から受けた施しと憐れみを隣人に分かち与えよとの勧めが語られます。
「しかしそれは、ただ私たちだけが神の宝によって潤うためではない(Doch nicht)」—— この転換の言葉に置かれた減7度の跳躍はサルトゥス・ドゥリウスクルスです。
自分たちだけが潤えばよいという考えを鋭く否定するこの一語に、バッハは最も「硬い」跳躍音程を与えています。

締めくくりの言葉「神の御心に届く(dringen)」では、増4度の上行跳躍を含むメリスマが旋律を大きく引き伸ばし、アリオーゾ風の表情を帯びます。
「深く届く・貫く」という動作そのものを音楽が描くヒュポティポーシスであり、同時に鋭い跳躍音程 — サルトゥス・ドゥリウスクルス — が「貫く」という言葉の力を音として体現しています。
最後の一節を際立たせることで、隣人への憐れみこそが何よりも神の御心に届くというテキストの核心がしっかりと刻み込まれます。

3. アリア(アルト)
“Seinem Schöpfer noch auf Erden”
歌詞
Seinem Schöpfer noch auf Erden
Nur im Schatten ähnlich werden,
Ist im Vorschmack selig sein.
Sein Erbarmen nachzuahmen,
Streuet hier des Segens Samen,
Den wir dorten bringen ein.
地上にあるうちに、ただ影においてでも
自らの創造主に似る者となること、
それはすでに祝福を先取りする幸いである。
神の憐れみに倣うことは、
ここで祝福の種を蒔くことであり、
私たちはそれをやがてかの地で収穫する。
楽曲の分析
アルト声部、独奏オーボエ、独奏ヴァイオリンが通奏低音伴奏のもとでトリオを形成します。
3/8拍子、三声部が親密に織り重なるこの書法——漂う「3」の象徴は、三位一体の神を示唆しているかもしれません。
父・子・聖霊が完全に分かち合う交わりの神の姿こそが、「神の憐れみに倣い、創造主に似る者となる」というテキストの根底にある思想であり、富める者がラザロとの交わりを拒んだのとは対照的に、三つの声部が喜びをもって響き合うこの音楽は、分かち合いそのものを体現しています。
前曲の教訓を内面的で柔らかな感情の世界へと変換するかのように、音楽は極めて緻密に書かれています。
“Vorschmack”(先取り・前味わい)という言葉が示す通り、祝福の喜びがすでにここに満ちているかのように旋律が柔らかく放射し、分かち合うことを重荷としてではなく、喜びとして味わわせます。

4. アリオーソ(バス)
“Wohlzutun und mitzuteilen vergesset nicht”
歌詞
Wohlzutun und mitzuteilen vergesset nicht;
denn solche Opfer gefallen Gott wohl.
(Hebrews 13:16)
善を行うことと、分かち合うことを忘れてはならない。
そのような捧げ物こそ、神に喜ばれる。
(ヘブライ人への手紙 13:16)
ヘブライ人への手紙 13:16
ヘブライ人への手紙は、信仰の共同体に向けて書かれた新約聖書の書簡です。
その第13章は手紙の結びにあたり、信仰者としての具体的な生き方への勧めが簡潔に記されています。
16節はその中の一節です。
「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはならない。そのような捧げ物こそ、神に喜ばれる。」
ここで注目したいのは「捧げ物(Opfer)」という言葉です。
旧約聖書の時代、神への礼拝の中心には動物の犠牲や穀物の献げ物がありました。
しかしこの一節は、真の捧げ物とは儀式的な供え物ではなく、善を行い隣人と分かち合うという日常の行いにこそあると告げています。
礼拝の形式よりも生き方そのものを問う、この転換はイザヤ書58章の精神と深く響き合います。
また「忘れてはならない」という言い回しも印象的です。
善を行うことや分かち合うことは、特別な決意を要する行為というよりも、信仰者が日々の中で自然に行うべきことであり、それをつい忘れてしまうという人間の現実を、静かに戒めています。
冒頭合唱のイザヤ書(旧約)から始まり、このヘブライ人への手紙(新約)へと続く流れは、旧約と新約が同じ一つの言葉を語り続けていることを示しています。
神に喜ばれる捧げ物とは何か —— その答えは時代を超えて変わらないのです。
楽曲の分析
カンタータ第2部を開くアリオーソです。冒頭合唱のイザヤ書(旧約)から始まり、ここで新約聖書の言葉へと移行する流れは、旧約と新約が同じ一つの真実を語り続けていることを示しています。
そしてその言葉は、儀式的な供え物ではなく、善を行い隣人と分かち合うという日常の行いこそが神に喜ばれる捧げ物であると告げます。
通奏低音のみを伴奏とするニ短調、2/2拍子、通奏低音がオスティナートを豊かに響かせる上で、バスがこの言葉をモットーのように告げます。
当時の礼拝参加者の心にキリストの声(Vox Christi)との連想を呼び起こしたに違いありません。

最後に歌われる “Opfer”(捧げ物)では、16分音符によるメリスマが上行します(アナバシス)。
善を行い隣人と分かち合うこと —— それこそが真の捧げ物であるというメッセージを、上昇する旋律が力強く歌います(ヒュポティポーシス)。
さらにその動きは通奏低音の16分音符によるオクターヴ上行へと受け継がれます。

5. アリア(ソプラノ)
“Höchster, was ich habe”
歌詞
Höchster, was ich habe,
Ist nur deine Gabe.
Wenn vor deinem Angesicht
Ich schon mit dem meinen
Dankbar wollt erscheinen,
Willt du doch kein Opfer nicht.
いと高き方よ、私の持つものは、
ただあなたからの賜物にすぎません。
たとえ御前に、自分の持つもので
感謝をもって現れようとしても、
あなたはそのような供え物を、
決してお求めにはなりません。
楽曲の分析
第4曲アリオーソの厳粛な語りとは対照的に、このアリアは際立って明るい音色を帯びています。
2本のリコーダー(フラウト・ドルチェ)がユニゾンで奏でるオブリガートとソプラノ声部が清らかに絡み合い、信仰ある魂の感謝の気持ちを表現します。
テキストは「いと高き方(Höchster)」への呼びかけで始まります。
ソプラノ声部が高い音域に置かれているのは、「いと高き者」という言葉へのヒュポティポーシスと読むこともできるでしょう。

自分の持つものはすべて神からの賜物にすぎず、それを供え物として差し出そうとしても神はそれをお求めにならない —— 第4曲が「善を行い分かち合うことこそ真の捧げ物だ」と力強く宣言したのに対し、このアリアはその言葉を内面化し、感謝と謙遜の祈りへと変換します。
変ロ長調、6/8拍子の清らかな喜悦感は、第3曲のアリアをいっそう高揚させたような表情を持ちます。
重荷ではなく喜びとして神に向かう「われ」の姿が、リコーダーの明るい音色とともに柔らかく放射していきます。
6. レチタティーヴォ(アルト)
“Wie soll ich dir, o Herr”
歌詞
Wie soll ich dir, o Herr,
denn sattsamlich vergelten,
Was du an Leib und Seel
mir hast zugutgetan?
Ja, was ich noch empfang,
und solches gar nicht selten,
Weil ich mich jede Stund
noch deiner rühmen kann?
Ich hab nichts als den Geist,
dir eigen zu ergeben,
Dem Nächsten die Begierd,
daß ich ihm dienstbar werd,
Der Armut, was du mir gegönnt
in diesem Leben,
Und, wenn es dir gefällt,
den schwachen Leib der Erd.
Ich bringe, was ich kann, Herr,
laß es dir behagen,
Daß ich, was du versprichst,
auch einst davon mög tragen.
主よ、私はいったいどのようにして、
あなたが私の体と魂に
施してくださった恵みに
十分に報いることができるでしょうか。
そうです、私が今なお受けているものも、
しかもそれは決してまれではありません。
私はどの時にもなお、
あなたをほめたたえることができるのですから。
私にはただ、この霊をあなたに
ささげることしかありません。
また隣人に仕えたいという願いを、
貧しい者には、この人生であなたが
私に与えてくださったものを、
そして、もし御心なら、
この弱い土のからださえも。
主よ、私は持てるものを献げます。
それがあなたのお心に適いますように。
そして、あなたが約束してくださるものを、
いつの日か私も手にすることができますように。
楽曲の分析
「信仰ある魂はいかにして創造主の恵みへの感謝を示しうるか」——このレチタティーヴォはその問いを、弦楽伴奏(アッコンパニャート)による充実した響きとともに提起します。
人の行う慈善と施しは、究極的には神の恵みの御業への感謝の表現にほかならないというテキストを、アルトが熱をこめて語ります。
霊を、隣人への奉仕を、貧しい者へのものを、そして弱い土のからださえも —— 次々と差し出されるテキストの一つひとつを、弦楽の和声が温かく包み込み、感謝の告白に深い色彩を与えています。
特に印象的なのは “Armut”(貧しさ)の言葉に置かれた長6度の下降跳躍です(サルトゥス・ドゥリウスクルス)。
さらにそこに現れる変音 Des(クロマティスムス)は、その言葉の印象を深めます。
感謝の告白の流れの中にこの一語が差し込まれることで、「貧しい者へ分かち与えよ」というカンタータ全体の核心が、最後にもう一度、鮮明に浮かび上がります。

7. コラール
“Selig sind, die aus Erbarmen”
歌詞
Selig sind, die aus Erbarmen
Sich annehmen fremder Not,
Sind mitleidig mit den Armen,
Bitten treulich für sie Gott.
Die behülflich sind mit Rat,
Auch, womöglich, mit der Tat,
Werden wieder Hülf empfangen
Und Barmherzigkeit erlangen.
(“Kommt, laßt euch den Herren lehren,” verse 6)
幸いなるかな、憐れみのゆえに
よそ者の苦しみを自ら引き受ける者は。
貧しい人々に思いやりを持ち、
彼らのために忠実に神に祈る者は。
助言をもって、またできることなら、
行いをもって助ける者は、
再び助けを受け、
憐れみを得るであろう。
「来たれ、主に教えを受けよ」第6節
楽曲の分析
ダーフィト・デーネッケ作詞の讃美歌「来たれ、主に教えを受けよ」第6節によるコラールです。
「幸いなるかな、憐れみのゆえに他人の苦しみを自ら引き受ける者は」 —— 山上の垂訓を思わせるこの書き出しは、カンタータ全体を貫いてきた「分かち与えよ」という主題を、祝福の言葉として締めくくります。
施す者の幸福が、安らかな祝福に満ちた和声づけのコラールによって静かに歌われ、憐れみを行う者はやがて憐れみを受けるという約束をもって、作品は幕を閉じます。

2026年5月20日, 圓谷 俊貴