Vorhandene Stimmen(現存 パート譜)
Gruppe 1(Weimarer Fassung=ヴァイマル版)S, A, T, B/Tromba I–III(トランペット1–3)/Oboe (in c)/Violine I, II (in c)/Viola (in c)/Violoncello (in c)/Orgel (in c)
Gruppe 2(Köthener Fassung=ケーテン版)S/Violine I, II (in d)/Viola (in d)/Fagotto (in d)/Violoncello (in d)
Gruppe 3(Leipziger Fassung=ライプツィヒ版)T rip(テノール・リピエーノ)/B rip(バス・リピエーノ)/Trombone II, III, IV (in b)(トロンボーン2–4)/Oboe(Dublette, in c)(オーボエ:複写パート、in c)/Basso continuo (in b)
Gruppe 4a(所属不確か・ヴァイマル時代?)Oboe (in d)
Gruppe 4b(Köthener Zeit=ケーテン時代)A (rip)(アルト・リピエーノ)
ヴァイマルの演奏では、 ソプラノ・ソロは存在せず、高声部の独唱(第3〜5曲、第7〜8曲、第10曲)はすべて テノールに割り当てられました。調性は ハ短調で、バッハのヴァイマル・カンタータの通常慣行(コーアトーン A≒465Hz での演奏)とは異なり、オーボエと(おそらく)ファゴット(ヴァイマルのファゴット譜は散逸)だけでなく、弦楽器、さらにはオルガンも「カンマートーン, A=415Hz」で演奏したと考えられます。
ケーテン時代の上演でも声楽ソリストは2人だけでした。しかし、高声部の独唱はテノール → ソプラノ に変更されています。ヴァイマルと同じように「カンマートーン」のセッティングで演奏されましたが、その調性はニ短調(オルガンは コーアトーン, A≒465Hz のハ短調で演奏)でした。
ライプツィヒでの上演に際してバッハは、高声の独唱をソプラノ(第3・7・8曲)とテノール(第4・5・10曲)に分けました。さらに、第6・9・11曲の合唱部分をソロ・四重唱 とトゥッティ(リピエーノ) に書き分けました。第9曲に、トロンボーンが追加され、合唱(リピエーノ)を支える役目を担いました。調性は再びハ短調 で書かれ「カンマートーン」で演奏されました。しかし、オルガンとトロンボーンのパート譜は長2度低く記譜されているため、コーアトーンのセッティングで演奏されたと思われます。¹
ニ短調で書かれたオーボエのパート譜が別に存在することも重要なポイントです。まず、記譜にはいくつか異なる点が見受けられます。このパート譜は(上記のいずれかの)特定の上演機会に、確実に用いられた、と断言することはできません。おそらく、ケーテン期の資料に属するのではないかと考えられています。しかしながら、ヴァイマルの資料と併用された可能性があることも確かです(その場合、弦とオルガンはコーアトーン = ハ短調 で演奏したことになります。)。あるいは、私たちが他に情報を持たない別の上演のために書かれた可能性もあります。
ヴァイマルでの上演は、パート譜表紙に記されたバッハの注記によって、1714年・三位一体節後第3主日(6月17日)であったことが分かります。ケーテン時代の上演は長らく、バッハがハンブルクでオルガニスト職を求めて訪れた1720年秋の旅と関連づけられてきました。ハンブルクの音楽家ヨハン・マッテゾンは、自ら編集した雑誌『Critica Musica』(1725年)でこのカンタータにおける語句反復を批判的に詳述しています。³ このことから、彼はハンブルクでバッハの指揮により演奏された機会にこの作品を知った可能性が高いと考えられます。
アルフレッド・デュルの研究によれば、ライプツィヒ資料はバッハがトーマス・カントル就任後最初の数か月に作成されたもので、彼は 1723年 三位一体節後第3主日(6月13日)の上演のためと見ています。⁴
このカンタータの起源は1714年以前にさかのぼるようです。アルフレッド・デュルとポール・ブレイナードの研究は、ヴァイマルのパート譜に示された音楽テクストが、この作品の最初期の構想を表すものではないことを明らかにしました。⁵
たとえば第1・2・6曲のオーボエ・パートには、ニ短調での上演を想定した痕跡があります。⁶ また終曲合唱では、オーボエ・パートが後から付加されたことを示す兆候があり、バッハが既存の楽章を終曲として転用し、カンタータ編成に合うよう改作したことがうかがえます。さらにブレイナードは、テキスト上の理由から第7〜8曲および第10曲が別作品からの転用である可能性を検討しています。興味深いのは、ヴァイマルのバス・パートにある第3〜5曲のtacet(休み)の指示が、Soprano solo(この際のソロは、全てテノールが担当した。)という彼の指摘です。この誤りは明らかに、パート譜の写譜の際のミスであると考えられます。また、対話(Dialog)の形式で書かれている第7・8曲において、「Seele(魂)」が歌う部分は、伝統に従えば、本来 ソプラノが担っていた可能性が高い、とも述べています。
オリジナル・パート譜の表紙タイトルには「Per ogni Tempo(いつでも/あらゆる時のために)」との注記があります。これによりバッハは、この作品に考えうる限り最も広い典礼的用途を与えたこととなります。実際、カンタータの歌詞は教会暦の特定の主日に合わせて作られたようには見えません。バッハが上演注記に挙げた三位一体節後第3主日との関係も弱く、いわば間接的であるように思えます。いわゆるバッハのカンタータは主日礼拝の説教と同様に、その日の福音書(当該主日ではルカ15章1〜10節、失われた羊・失われた銀貨のたとえ)を中心題材としていますが、本作の場合、内容上結び付くのは主日の書簡朗読(ペトロ5章6〜11節)に限られています。具体的には、・テキスト第7節「あなたがたの思い煩いをすべて神に委ねよ。神があなたがたを顧みてくださるからだ」カンタータ第9曲「重い思い煩いが、私たちに何の助けとなろう…」・第11節「永遠から永遠まで、栄光と力が神にあるように。アーメン」第11曲「賛美と栄光と誉れと力…」が対応しています。はたして当時の慣行に照らして、この程度の関連だけで三位一体節後第3主日の主日礼拝での上演を正当化できたのか、それとも1714年のその日には、特別な事情─たとえば説教者との相談─が作品選択や、場合によっては歌詞と楽章構成の決定に大きく作用したのか、疑問が残ります。
実際、1714年6月のヴァイマルには、そのような特別の契機があった可能性があります。ラインホルト・ヤウアーニヒが1954年に示したように、当時のヴァイマル宮廷は、重い病にある若きザクセン=ヴァイマル公ヨハン・エルンスト(1696–1715)の「苦痛に満ちた病(Schmerzhafte Maladie)」の軽減を期待して、バート・シュヴァルバッハでの湯治のため7月4日に旅立ち、
結局帰還しなかった─ その別れが迫る状況に覆われていたことは事実です。⁷ このカンタータの慰めに満ちたメッセージは、まさにその息苦しい状況を代弁するものとなり得たと思われます。
すでに19世紀には、この並外れた作品が何らかの特別な機会に由来するのではないか、と推測されていました。フリードリヒ・クリュザンダーは、このカンタータを、1713年アドヴェント期にバッハがハレの聖母教会(Liebfrauenkirche)のオルガニスト職に応募した際に、試験作品として演奏したものだと見なそうとしました。⁸クリュザンダーの見解は十分な根拠づけがないものの、デュルやブレイナードも可能性としては検討していました。しかし近年マルティン・ペツォルトは、1713年12月の上演は「時節上(de tempore)の理由からまったく不可能」に見える、なぜならテキストが「神学的にまったくアドヴェントの時期に属さない」からだ、と反論しました。⁹
同時にペツォルトは、別の成立契機の可能性にも注意を促しています。それによれば、このカンタータの原初形態は、1713年9月24日にヴァイマルで48歳で没し、3日後に葬られたアエミーリア・マリア・ハーレス(Aemilia Maria Harreß)─ 委員ヨハン・ハーレスの未亡人で、影響力の大きいシュヴァルツブルク侯国宰相アハスヴェルス・フリッチュ(1629–1701)の娘 ─のための葬送音楽であった可能性があるというのです。1713年10月8日、ヴァイマル市教会では故人の追悼説教が行われました。葬送音楽が演奏されたという情報は一切ないのですが、ヴァイマル総監督長ヨハン・ゲオルク・ライリッツの印刷された説教文は、バッハのカンタータ本文と驚くほど密接な関連を示しています。説教の主題聖句は詩篇94篇19節「わたしの心には多くの憂いがあった…」であり、これは第2曲がテキスト上このカンタータを開始する聖句そのものであります。さらに説教の重要箇所では、カンタータで続く二つの合唱の基盤となる聖句─ 詩篇42篇 12節「なぜうなだれるのか、わが魂よ…」(第6曲)と、詩篇116篇 7節「今こそ憩え、わが魂よ…」(第9曲)─も引用されています。神学的観点からは、説教文と付録として印刷された随伴テキストから、第3〜5曲とも密接な関係が導かれるため、これらも仮説上の葬送音楽に属していた可能性があります。一方で、第7・8・10曲の残りの独唱楽章と、黙示録5章12〜13節「ほふられた小羊」(第11曲)にもとづく終曲合唱は、上記とのは全く関連していません。
このカンタータの自由詩の歌詞(マドリガル的なテクスト)は、これまで多くの場合ヴァイマル宮廷詩人ザロモ・フランクに帰されてきました。¹⁰しかしカンタータの成立が確定しないかぎり、これは推測にとどまります。第9曲で一般的な旋律をカントゥス・フィルムスとして歌われる二つの歌詞節は、ゲオルク・ノイマルク(1621–1681)による教会歌曲「Wer nur den lieben Gott lässt walten(ただ愛なる神の導きに委ねる者は)」(EG 369) に由来します。
制作ノート
2026年3月14・15日の弊団の公演のタイトルは「ヴァイマルのカンタータ②」です。タイトルと上記の情報を踏まえて、今回はカンマートーン A=415Hzにて本曲を演奏いたします。筆者も全パートを実際に歌ってみましたが、カンマートーンでの歌唱が喉への負担が最も少なく、余裕のある音楽作りが可能であると確信します。コーアトーンでの歌唱は、その音の高さ故に、細部の音楽的な表現が難しくなると感じました。金管楽器にも同様のことが当てはまるのではないかと想像します。また、ライプツィヒで演奏する際に加えられたとされるトロンボーン(サックバット)については、本公演の編成には加えずに演奏いたします。別な機会にライプツィヒ版として演奏する際の楽しみとして、取っておきたいと思います。
また、バッソ・コンティヌオは、いわゆる16フィートのコントラバスではなく、8フィートのヴィオローネで演奏しますが、これは正しいと思っています。16フィートの楽器では、最低音Cがないため何処かで音をオクターヴ上げるしかありません。8フィートのヴィオローネを用いることで、そういった「苦肉の策」を用いずに済みます。そして、バスラインのサウンドが驚くほどにすっきりとした印象で、個人的にはとても好みです。チェロ、ファゴット、オルガンと「混ざり合った音」も魅力的です。ソロ・アンサンブルとトゥッティ・アンサンブル(リピエーノ)が書き加えられたのは、ライプツィヒ資料とされていますが、大変効果的であるため、本公演でも採用します。第9曲の合唱曲の定旋律を、オーボエ+スライド・トランペットでの補強の可能性があることを付け加えておきます。2026年1月22日圓谷 俊貴
注釈
1, 追加的に、ヴァイマルのハ短調オルガン譜がチェンバロ・パートとして用いられた可能性もある2, Philipp Spitta, Johann Sebastian Bach, Bd. I, Leipzig 1873, S. 529.3, 参照:Martin Petzoldt, 「重い不安の重荷のもとでの力強い活力回復──BWV21成立に関する新知見の可能性」, Bach-Jahrbuch 1993, S. 31–46.4, Alfred Dürr, Zur Chronologie der Leipziger Vokalwerke J. S. Bachs. 第2版(注・補遺付、Bach-Jahrbuch 1957所収の増補再録), Kassel 1976, とくに S. 41, 58.5, 文献:批判報告(Krit. Bericht)参照;さらに Paul Brainard, “Cantata 21 Revisited”, Studies in Renaissance and Baroque Music in Honor of Arthur Mendel, Kassel/Hackensack 1974, S. 231–242.6, 第2曲の26小節で、バッハ時代のオーボエには存在しない音(des’ と b)が要求されるが、上記のニ短調オーボエ譜(第28パート)ではその箇所が演奏可能である。第6曲では58小節(第3主題内)に一時的な低オクターヴ化があり、ニ短調では技術的に難しい最高音 d’’’ を回避するためだが、ハ短調では不要である。ニ短調オーボエ譜にはシンフォニアの13–14小節(付録の移調掲載参照)に古い読みが含まれ、14小節で音 es’ に触れる(注8参照)。ハ短調では(本版の印刷のように)des’ となるが、この音は当時の楽器では演奏不能であり、そのためバッハは調性変更に伴い当該箇所全体を書き換えた。7, Reinhold Jauernig, 「カンタータ《Ich hatte viel Bekümmernis》(BWV21)について」, Bach-Jahrbuch 1954, S. 46–49.8, Friedrich Chrysander, Georg Friedrich Händel, Bd. I, Leipzig 1858, S. 22.9, 同前(a.a.O.)S. 35。あわせて Peter Wollny, 「ハレのマリエン教会オルガニスト職応募とその文脈」, Bach-Jahrbuch 1994, S. 25–39。限定的見解として Alfred Dürr, 「J.S.バッハの1713年ハレ試験作品について」, Bach-Jahrbuch 1995, S. 183f.10, カンタータ詩作と作者問題について:Helene Werthemann, 「バッハ・カンタータ21《Ich hatte viel Bekümmernis in meinem Herzen》のテキストについて」, Bach-Jahrbuch 1965, S. 135–143.