“Der Herr denket an uns” BWV 196

《主はわれらを御心に留めたまえり》

用途 : おそらく結婚式のために作曲されたと推測されます(初演日とミュールハウゼンでの活動時期から)。
初演 : 1708年6月5日? ミュールハウゼン
歌詞出典 : 詩篇第115篇12–15節より(ルター訳聖書による)。
編成 : ソプラノ、テノール、バス(ソロ)、四声合唱(SATB),ヴァイオリン I, II、ヴィオラ、ファゴット、通奏低音(オルガン等)
基本資料 : 総譜:J.L.ディーテルによる筆写譜(1731/32年)=SBB(ベルリン国立図書館所蔵)
演奏時間:約13分

【出典】
磯山雅・小林義武・鳴海史生 編著『バッハ事典(DAS BACH LEXIKON)』東京書籍、1996年。

全体の解説

カンタータ《Der Herr denket an uns(主はわれらを思い起こされる)》BWV 196 の正確な作曲時期を断定することはできません。ヴィルヘルム・ルストは、このカンタータが婚礼用に作曲されたものであると明確に位置づけましたが、その根拠は「テキストを一見すれば明らか」であるというものでした。

テキストは詩篇115篇からの抜粋で、節12~15が各楽章に1節ずつ配されています。フィリップ・シュピッタは、詩篇の内容から、バッハとマリア・バルバラの結婚に関わった牧師(ヨハン・ローレンツ・シュタウバー)が、婚礼を祝ってこのカンタータを演奏した可能性を示唆しました。シュタウバーは1707年10月17日、ミュールハウゼンのドルンハイム村でバッハとマリア・バルバラの婚礼を執り行い、翌1708年6月5日には、バッハの妻の叔母であるレギーナ・ヴェーデマンの結婚式も同じ教会で執り行いました。このため、シュピッタは同年6月5日が初演日であると判断しました。

このカンタータの詩は自由詩を含まず、音楽様式はブクステフーデを思わせるため、1707/08年に作曲されたと推測されます。また、レチタティーヴォがなく、器楽による前奏と短い楽章で構成されている点からも、バッハ初期の作品とされています。ヴォルフは1708年から1714年(ヴァイマール時代)を作曲時期と絞り込んでおり、近年の研究では、イタリア音楽の影響からバッハ初期(ヴァイマール)に作曲された可能性があると指摘されています。

ただし、原稿(自筆譜やパート譜)は現存しておらず、初期資料に基づいた日付の確証はありません。本版は、ライプツィヒの写譜師ヨハン・ルートヴィヒ・ディーテルによる写譜(1731/32年頃)に基づいています。彼はバッハの主な写譜師の1人であり、原譜に直接アクセスできたと考えられます。今日、この写譜はベルリン国立図書館に所蔵されています。また、19世紀に作られた他の写譜も存在し、ディーテル本とは明らかに異なる読みが見られます。


🎼 楽譜のリンク

IMSLP : BWV 196

1. シンフォニア
“Sinfonia”

作品冒頭は、弦楽器と通奏低音による器楽のみの序曲(シンフォニア)で始まります(調性はハ長調)。

軽快で爽やかな曲調は、フランス風序曲を想起させます。

特に印象的なのが、付点リズムによる一貫したフレーズ運びで、祝福の雰囲気を漂わせます。


神が人間を御心に留めてくださるという主題が、
あたたかな光に照らされたように自然と広がっていきます。


このシンフォニアのもう一つの魅力は、
「9の和音」や「56の和音」といった倚音(いおん)や不協和音がもたらす、音のぶつかりの美しい響きです。

音の一瞬のぶつかりと解決が、
曲の色彩感を高め、響きの豊かさを生んでいます。

▲ 目次に戻る

2. 合唱
“Der Herr denket an uns”

詩篇115篇12節

Der HERR denkt an uns und segnet uns;
er segnet das Haus Israel, er segnet das Haus Aaron.

主はわれらを御心に留め、祝福してくださる。
主はイスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福される。
(新共同訳)


詩篇115篇の全体テーマ

この詩篇は、**「神に栄光を帰すること」**が冒頭からのテーマです。そして、偶像礼拝を戒める警告の言葉が続きます(4~8節)。つまり、目に見えない真の神にこそ信頼を置くべきだという信仰告白の詩です。

12節は神の祝福の約束を歌っています。ここは、偶像ではなく真の神に信頼する者に対して、神がどのように応えてくださるかを語る希望の句です。


神の祝福の対象

主はイスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福される。

この箇所で言及されている祝福の対象は以下の通りです:

  • イスラエルの家
    → 民全体。神の契約に生きる者たち(神の民)。
  • アロンの家
    → 祭司の家系(レビ族のうちアロンの子孫)。神との仲介者として仕える者たち。

つまり、一般信徒も、宗教指導者も、すべての神の民が祝福されるということが宣言されています。

まとめ

要素内容
出典旧約聖書 詩篇115篇12節
主題神はその民を覚え、祝福してくださる
祝福の対象イスラエルの家(民全体)・アロンの家(祭司)
意味神の記憶と祝福は全ての信仰者に等しく注がれる
バッハ作品との関係神の祝福を受ける結婚する二人に向けての祝福の音楽的表現(BWV196)

楽曲の分析

この楽章の最初は、**ソロの部分(1,2小節など)とTutti(3小節の2拍目〜4小節の1拍目など)**が明確に分かれるコンチェルタントの様式で書かれています。

ソプラノとテノール、アルトとバスがペアとなって主題を歌い交わす様子は、
まるで仲睦まじい男女のような会話にも感じられます。


中盤では合唱全体が**“gesegnet uns(私たちを祝福する)”**と一斉に歌います。


4声のフーガへ

後半は4声のフーガへと移行します。通奏低音はグラウンドバスで全体を支えます。
この曲全体で プレリュードとフーガ のような構成になっていることも興味深い点です。


最後にもう一度冒頭の音形が現れる

フーガがピークを迎えた後に、冒頭の音形が戻ってきて曲を閉じます。

▲ 目次に戻る

3. アリア(ソプラノ)
“Er segnet, die den Herrn fürchten”

詩篇115篇13節の聖句

Er segnet, die den Herrn fürchten, beide, Kleine und Große.

主を恐れる者は、小さな者も大いなる者も、主は祝福してくださる。


聖書的背景と意味

この節は、神の祝福の普遍性を強調しています。

主を恐れる者」という表現は、旧約聖書全体を通して敬虔な信仰者、つまり神への畏敬と忠誠をもって生きる者たちを指します。

小さき者と大いなる者」は、社会的な身分、財産、知識、年齢、性別といったすべての違いを越えて、すべての人が神の祝福の対象であることを象徴しています。

この節は、「神の前ではすべての人が平等である」という思想を明確に示しています。
これは ルター派の信仰原理──「万人祭司」「信仰による義」──とも響き合います。


現代への応用

この節は、現代でも以下のような意味で引用されます

・教会の礼拝の終わりに唱える祝祷の言葉として
・結婚式や洗礼式など、信仰に基づく人生の節目での祝福の言葉として
・社会的弱者を含むすべての人に向けた平等と希望の宣言として


楽曲の分析

この曲(BWV 196, Nr.3)でソプラノが歌うのは、**「神はどんな者をも平等に祝福してくださる」**という、限りない慈しみと憐れみの深さです。

この曲の書法は、BWV 147 の ソプラノ・アリア “Bereite dir, Jesu, noch heute”(主イエスよ、今すぐにでも)と類似しているとを感じます。

どちらのアリアにも共通するのは、神(またはイエス)の愛を信じ、その懐に身を委ねる“信じる魂”の姿です。

まるで母の腕に抱かれる子どものように、穏やかな愛に包まれた信頼と献身が美しい旋律と共に語られます。

▲ 目次に戻る

4. 二重唱(テノール、バス)
“Der Herr segne euch je mehr und mehr”

Der Herr segne euch je mehr und mehr,
euch und eure Kinder.

主があなたたちの数を増し加えてくださるように。
あなたたちの数を、そして子孫の数を。

詩篇115篇14節 背景と意味

詩篇115篇は、神への信頼と偶像への批判を対比させながら、
真の神を信じる者に与えられる祝福について語る詩篇です。

その中で14節は、信仰者に対する神の繁栄の約束として位置づけられます。

この節では、「あなたがた(民)」と「あなたがたの子どもたち」両方に
祝福が世代を超えて注がれることが祈られています。

神の祝福とは?

ここで言う「増し加える(mehren)」とは、
単に人数の増加を指すだけではなく、
以下のような神の恵み全体の拡大・繁栄を含意しています:

物質的な豊かさ(土地、作物、平和)
霊的な繁栄(信仰の継承、神との関係の深まり)
家族や共同体の発展


結婚式や祝福の場面との関係

この節は、結婚式や新しい家庭の始まりにおいて
特にふさわしいメッセージです。

・子孫の繁栄 → 家系の継承への希望
・世代間の祝福 → 親から子へと続く神の愛

祝福が一代限りで終わるのではなく、
未来へと続いていく希望と繁栄を象徴するものとして構成されています。


楽曲の分析

この楽章は 3/2拍子 で書かれ、プロポルツィオ・セスキアルテラproportio sesquialtera)などの定量記譜法によるメンスーラを想起させる古い様式が印象的です。一家の代々の繁栄をスタイルでも体現します。


祝福のデュエット の音楽はどこか厳格な雰囲気です。

まるで

「日々のしっかりとした生活の上にこそ、
本当の繁栄は築かれるのだ。」

と言わんばかりに、真の繁栄には節度と堅実さが重要であることを聞き手に伝えてくれます。


曲の最後には、天から地にいる我々に向かって、
子孫繁栄の祝福が降り注ぐかのような アルペッジョの音形を弦楽器が演奏します。

▲ 目次に戻る

5. 合唱
“Ihr seid die Gesegneten des Herrn”

Ihr seid die Gesegneten des Herrn,
der Himmel und Erde gemacht hat.
Amen.

天地の造り主、主があなたたちを祝福してくださるように。
アーメン

詩篇115篇15節 内容の意味と背景

この節は、祝福の根拠とその力強さを明示する、詩篇115篇の結びの一句です。

1. 祝福の主体は「天地の創造主」

「HERR(ヤハウェ)」 とは、旧約聖書における神の固有名であり、契約の神を指します。

・この神が「天と地を創られた」=宇宙全体の主権者であると述べることで、
 人間に対する祝福が単なる願いではなく、絶対的な力と実効性を持っていると強調されます。

2. 祝福の受け手は“あなたたち”

・原文の 「Ihr seid」(あなたたちは〜である)は、宣言的な口調で、
 祝福がすでに授けられているという肯定的な宣言として響きます。

・「あなたたち」には、神を畏れるすべての人々が含まれており、
 階級や立場を超えて神の祝福が与えられるという普遍的なメッセージが込められています。

3. 創造と祝福の結びつき

・「天と地を創られた神」=無から有を生み出す力を持つ方

・その方が「あなたたちを祝福してくださる」という言葉には、
 人生のあらゆる場面における神の創造的祝福が注がれることが暗示されています。


楽曲の分析

この終結句は、結婚の祝福を締めくくる力強い祈りと宣言として用いられ、
「神が創造した秩序の中で、ふたりが祝福された存在である」ことを確信と共に歌います。

曲は、前半と後半で構造が明確に分かれた、プレリュードとフーガのような二部構成を取っています。

前半 は、宣言的で晴れやかな祝福の言葉がテンポよく展開されて、希望に満ちた音楽です。


後半はフーガとなり、声部の重なりは高揚感を生み、
演奏者も聴衆も喜びに満たされていきます。

グラウンドバスの通奏低音が、全体をしっかり支えます。


曲の最後には印象的な「エコー(こだま)」が登場します。

小さな声で「Amen」と唱えられるこの結びは、
**心の奥深くで「そうなりますように」という祈りを捧げる**かのようです。

▲ 目次に戻る

この記事は 圓谷俊貴 によって執筆されました。

0 0 votes
Article Rating
Subscribe
Notify of
guest
0 Comments
Oldest
Newest Most Voted
Inline Feedbacks
View all comments
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x